トランスフォーマーのロケ地にもなったペトラ遺跡
目の前が広場のようになったエル・ハズネから再び短めのシークを抜けるとアウター・シークと呼ばれる広い通りにでます。40以上の墓が神殿のファサードのように並ぶファサード通りが見えてきました。どのファサードも屋根が階段状に装飾され、下部には地面に埋もれかけた長方形の入り口が口を開けています。このデザインは紀元前7~6世紀のメソポタミア、アッシリア帝国の影響が見られますが、墳墓だと考えられているこの遺構自体はもっと古いもののようです。外壁には見事なレリーフが刻まれていますが、内部は立方体に岩を切り出しただけの空間でレリーフや壁画といった装飾はありません。墓の上部が階段状になっているのは、この階段で天国に昇っていくというナバタイ人の死生観を表したものだそうです。
ペトラ初期のものと考えられる岩山の岩窟墓群は、ごく最近までベドウィンの居住地だったそうです。彼らが煮炊きするための焚き火のススで洞窟の内部は黒ずんでいました。1985年の世界遺産登録以来、ユネスコとヨルダン政府は遺跡内に住むベドウィンに移住を促してきましたが、実は今も現地に住み続けている人がいるようです。正直なところ、あちこちで食事の支度をしているベドウィンを見かけるので、仕事に来た人が食事をしてるだけなのか、ふだんから住んでいるのかは見わけがつきません。ここで生まれ育ったベドウィンが出て行きたくない気持ちも理解できる気がします。
ローマ円形劇場も、岩窟墓群と同じように岩をくりぬいて造られています。比較的柔らかいとされるペトラ近郊の岩は加工しやすいそうですが、それでもこれだけの規模の劇場を作るとなるとかなりの労働力が必要だったと思います。建造時期には諸説がありますが、1世紀にナバタイ人が造ったものを基礎として、ローマ人が柱などを増築したと考えられています。
歴代の王の霊廟ではないかといわれている王家の墓の全体像です。遠くから見ても、色々なデザインのものが混在しているのがわかりますが、いずれも1世紀頃に建造されたもののようです。左側から宮殿の墓、コリント式の墓、シルクの墓、壺の墓と並んでいます。
左側の細かい縦縞模様の入ったファサードを持つ比較的小ぶりな墓がシルクの墓です。右側にある壺の墓は、ナバテア王の墓として造られ、後の5世紀にはキリスト教会として再利用されていました。肉眼での確認はできませんでしたが、エル・ハズネの納骨壺みたいな飾りがあることから名付けられたようです。
左奥の墓は、バロック式宮殿のようなファサードをもつことから宮殿の墓と呼ばれています。2階まではペトラ内の他の遺構と同じように岩を削り取って造られていますが、その上に3階部分が付け足された例外的な造りのために階のある墓とも呼ばれているそうです。その手前にある墓は、エル・ハズネにそっくりのコリント式の柱が並んでいることからコリント式の墓と名付けられています。
かつてのメインストリートである柱廊通りを歩きながら、振り返ると先ほど通った王家の墓が見えています。こうしてあらためて見てみるとエジプトのピラミッドにも引けを取らない立派なお墓です。地震の多いエリアなので周囲の建造物はほとんど崩壊してして、大きなものしか確認できませんが、この5〜6m幅の大通りの両サイドには商店等が並んで賑わっていた様子が目に浮かぶようです。
左手に、ペトラ遺跡の中で最大規模の遺構である大神殿が見えてきました。階段の先は広場になっていて、その上の階が神殿になっています。列柱の様子からローマ帝国の併合時代のものかと思いましたが、それよりもずっと古い時代の1世紀末頃にナバタイ人が建造したものです。5世紀のビザンチン時代まで神殿として使用されてきましたが、地震で瓦礫と化して長く土石に埋もれてきました。発掘されたのは、1992年とごく最近のことだそうです。
柱廊通りを深部に向かって進んでいくと2世紀のものと思われる凱旋門(メテナス門)が残っていました。かつては、この門に木製の扉があったそうです。
凱旋門をくぐった先の列柱通りの最西端にあるカスル・アル・ビントは、「ファラオの娘のための宮殿」という意味ですが、ナバタイ人の神ドゥシャラーを祭った神殿です。これも1世紀頃のものだと考えられています。
ここから山道を登ってペトラ遺跡の最深部であるエド・ディルを目指します。ロバタクシーの勧誘を振り切って歩き始めました。
エド・ディルまでの山道は、800から900段の長〜い長〜い階段になっています。800から900!?そこは大事なとこなんだよ!と声をあげたくなりますが、そこを歩けば、階段の形を成していない砂や石の坂道部分が多いので、段数を正確に数えるのが無理なことに納得せざるを得ません。
断崖絶壁のようなところも通ります。日本なら余裕で立ち入り禁止になりそうな場所に、策や塀も設けられていません。何度かロバタクシーの誘惑に負けそうになりましたが、落馬(落ロバ)でもしたら、命の保証はないような景色が広がっています。
こんなところでどうやって生きているのかわからないけど、道中で何匹も猫を見かけました。人懐っこく後をついてくるので、普段から餌付けされているようです。休憩を挟むと再起不能になりそうだったので、猫とともに休まず歩いて40分ほどで登頂に成功しました。
気の遠くなる数の階段を登りきった先にヨルダン・ペトラ遺跡の最深部にあるのエド・ディル(修道院)が見えてきました。エル・バズネのような細かい装飾はありませんが、高さ45m・幅50mとエル・ハズネよりもひと回り大きな遺構です。紀元1世紀頃のナバタイ王国末期に建てられた神殿と考えられていますが、ローマ帝国に併合された時代に修道院として使われていたことが名前の由来になっています。ちなみに、こちらは映画「トランスフォーマー / リベンジ」の撮影地としてもお馴染みです。
シンプルな神殿の内部は、「トランスフォーマー/リベンジ」でオートボットのツインズが大喧嘩したあのシーンの舞台です。彼らの取っ組み合いのおかげで、壁が壊れて中に隠された秘密のアイテムを見つけることができたんですが、CGとは言え、彼らが豪快に建物を交わすシーンには冷や冷やしました。このシリーズのファンとしては、世界遺産での映画撮影を許可しただけでなく、架空とは言え破壊シーンが映像として流れることにストップをかけなかったヨルダン王室の寛容さには感謝しかありません。
ペトラ遺跡は、2007年に新・世界七不思議にも選ばれています。未だに解明されていないことが多いので、ガイド本によっても遺構の建造時期や使用目的などの解説内容にくい違いがあります。いつかその全容が解明される時が来るのかもしれませんが、未知の要素が多いからこそ、ナバタイの人々や遺構の辿ってきた歴史への想像が一層掻き立てられます。七色に変化する岩肌を眺めながら歩くだけで、冒険の真っ只中に自分がいるような気がして、最後までワクワクしっぱなしでした。
これからアンマンに向かい、そのまま夜のフライトでドバイを目指します。
インディ・ジョーンズで見たペトラ遺跡
ヨルダンに数十年ぶりに降った大雪のせいで、ほとんど諦めかけていた今回の旅のハイライト「ペトラ遺跡」にやってきました。旅程を変更して粘った甲斐があって、夜には帰国便に乗らないといけないので、時間は限られていますが、帰国直前にして最初で最後のチャンスを楽しみたいと思います!!
ペトラ遺跡に興味を持ち始めたのは、多くの人がそうであるように映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」を見た子供時代でした。ハリウッドの2大巨匠が手掛けた映画の中で登場した聖杯が隠された神殿「エル・ハズネ」の壮大な姿を見た時の感動は、それが映画のために作られたセットではなくて、実在する遺跡であると知った瞬間に何倍にも増幅され、いつかはその姿をこの目で見てみたいとずっと夢見てきました。ハリソン・フォードもわたしも年を取ったけど、やっとその時が訪れたのです。楽しみでソワソワして、遠足の前日の子供のように眠れませんでした。
朝一でやってきたビジターセンター。「Welcome To Petra」にあらためてペトラまでやってきたことを実感します。1985年に世界遺産にも登録されているペトラ遺跡は映画の舞台になったこともあって、多くの人が憧れるとても有名な遺跡ですが、その詳細の多くは不明のままです。初めて歴史に登場したのは紀元前1世紀以降に乳香や香辛料などの貿易で力を持っていた古代アラブ民族のひとつナバタイ人の首都としてでした。しかし、それ以前のものと考えられる史跡も存在しているので、正確な建造時期はわかっていません。ローマ帝国に併合されて、ナバタイ王室の時代か終わった後もローマ風の都市として繁栄が続きました。363年の大地震によって廃墟と化し、歴史の表舞台から一旦は姿を消しましたが、1812年にスイス人探検家のヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって発見され、再びその存在を広く知られるようになっていきました。
入り口からシークまでの1kmほどの道は、左側が馬用、右側が歩行者用道路になったバーブ・アッシークです。バーブ・アッシークの左右には、ペトラ遺跡を残したナバタイ人の庶民の墓と思われる低い岩の丘が並んでいます。
道沿いの右手には、精霊が宿ると伝えられるジン・ブロックスと呼ばれる巨大な岩のブロックが3基並んでいました。比較的上流階級のナバタイ人の方形墓だと考えられています。日本のお墓のように埋葬した上に墓石としての岩を置いてあるのではなくて、岩の上部に穴を開けてその中に埋葬していたとのこと。奥にあるのがナバタイの女神ウッザー、手前にあるのが娘のアッラートを表していて、その間の奥まったところにあって写真では見えていないの大きなブロックが主神ドゥシャラーを表しているとも言われています。
ジン・ブロックスの対側には、オベリスクの墓とバーブ・アッシーク・トリクリニウムとが上下に一緒になった遺構がありました。4本の塔がエジプトのオベリスクに似ていることから付けられた上段のオベリスクの墓は、ナバタイの王アレタス1世の墓ではないかと考えられています。ドリス様式の柱にギリシアの影響が表れた下段のバーブ・アッシーク・トリクリニウムは死者のための饗宴の儀式が行われた遺跡だそうです。
狭い断崖絶壁の谷間の道シークに入っていきます。ここからエル・バズネまで1.2kmの緩やかな下りの道が続きます。
シーク内の両側には、見事な水路が設けられていました。写真の水路はエル・ハズネに向かって右側を流れる飲用水用のものです。水路だけではなく、エル・バズネの手前にはシーク内の洪水を防ぐためのダムも整備されています。ナバタイ人が繁栄した理由のひとつは、後に支配したローマ人が手を加える必要もないほど彼らが水利技術に優れていたからだとも言われています。各地に素晴らしい水道橋を築いた水路のプロとも言えるローマ人が認めたくらいなので、ナバタイ人の技術は当時の最先端をいっていたものと思われます。
シークの対側、左側には灌漑用水路がありました。
シークの中は細く曲がりくねっていて、両側には高さ60〜100mの断崖が迫っています。カーブを曲がるごとに含有鉱物によって赤・黄・茶・青・・・と七変化する岩肌が作り出す景色はとても美しく、同じように見えても全く違った表情を見せてくれるので、飽きがきません。
シーク内にもともと整備されていた石畳はほとんど失われてしまっていましたが、再整備された石畳が所々に見られました。
薄暗い峡谷の隙間に明るい光が差してきました。忽然と姿を現したのが、ペトラ遺跡のハイライトであるエル・ハズネです。これまでのシークの断崖に挟まれた長い道のりはこの景色を見た時の感動を増幅させるための演出だったのではないかと思うくらい圧倒され、その全貌をを早く目にしたくて思わず駆け出してしまいました。
エル・ハズネの全景です。オレンジ色に輝く壮麗な遺跡は、かつて「インディ・ジョーンズ・ 最後の聖戦」で見たままでした。シークから出てきた誰もがその存在感に圧倒され、その美しさに息を呑みます。岩山を上から下へと削って作られた高さ45m・幅30mの巨大な正面のファサードは、まるで神殿のような外観です。映画の世界と違って建物の内部には何も残っていないため、この遺構が作られた目的もはっきりしていません。宝物殿とは呼ばれていますが、紀元前1世紀にナバタイの王アレタス4世によって建造された葬祭殿のようなものではないかと考えられています。全部で12本あるコリント柱は、12の月を表しているそうです。
上に彫られた納骨壺は、財宝が納められていると信じたベドウィンによって銃撃を受けたため破損しています。上部円柱の中央にはナバタイのウッザー神と同一だとされるイシス神が刻まれているのがうっすらとわかります。他にも人物像が複数彫られていますが、劣化や破損で誰を描いたものかはっきりと見分けることができません。そんな状態でもファサードに施された装飾はとても緻密で十分な見応えがありました。
ペトラ遺跡の中は車が入らないにも関わらず、そこそこの距離を歩かなければならないので、観光客向けのラクダがたくさん待機していました。日本の動物園にいるラクダは人に唾を吐きかけたりしますが、こちらのラクダはとてもお利口です。写真を撮りながら進みたいので、この先も徒歩で向かうことにします。
いきなり初っ端からペトラ遺跡のハイライトを迎えてしまいましたが、まだまだ見どころいっぱいのペトラ遺跡、後編に続きます。
CREA Traveller (クレア・トラベラー) 2012年 04月号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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イスラエルからペトラ遺跡を目指して再びヨルダンへ
イエスが頻繁に祈りのために訪れていたというゲッセマネの園はオリーブ山の麓にあります。現在まで受け継がれているオリーブの木は8本だけですが、かつてのこの辺りは一面のオリーブ畑でした。盛んにオリーブオイルの精製が行われていたため、ヘブライ語で油絞りを意味するゲッセマネという名前が付けられたそうです。処刑前の最後の夜をイエスが祈りながら過ごしたとされているゲッセマネの園に建てられたのがこの万国民の教会です。血の汗を流すほどにイエスの祈りが苦悶に満ちたものだったことから苦悶の教会とも呼ばれています。
繊細で美しいビザンツ様式のモザイク画が描かれたファサードが特徴的です。万国民の教会の基礎となる教会が建てられたのは4世紀のことでした。その後も破壊と再建を繰り返し、様々な国からの献金によって1919年に再建されたのが現存する建物です。
万国民の教会に隣接してオリーブ山中腹にはマグダラのマリア教会が建てられています。7つの金色のタマネギを載せたような円屋根がいかにもロシア正教会の建物といった外観です。2人のマリアに捧げるため、ロシア皇帝アレクサンドル3世によってこの教会が創建されたのは1888年でした。1人目がマグダラのマリアです。わたしが初めて彼女の存在を知ったのは、小説ダヴィンチ・コードでした。イエスとの結婚に関する様々な伝説のある女性がいると知ってかなり衝撃を受けたことを覚えています。歴史的根拠は未だに見出されていないので、実際に二人が婚姻関係にあったかどうかはわかりませんが、イエスが十字架に架けられ、埋葬されるのを見守り・・・いずれにしてもイエスの最後に付き従った女性たちの中で一番重要な人物であることは間違いはありません。2人目のマリアは皇帝アレクサンドル3世の母后で、彼女のご遺体はこの教会の地下聖堂に眠っているんだそうです。
オリーブ山から神殿の丘のある西側を見ると、その間が谷になっていて切石造りの墓が所せましと並んでいます。この谷は、ケデロンの谷と呼ばれ、ダビデ王の時代から続く古い墓地になっています。無数の墓石は谷一面を覆い、山を飲み込みそうな勢いで斜面にまで迫ってきています。
岩のドームが煌めく神殿の丘の向こうに日が沈もうとしています。エルサレムの辿ってきた歴史は想像するのも難しいくらい苦しいものだったでしょうが、だからこそ束の間かもしれない平和な時代のこんな景色がより貴重なものに感じられます。
夕日の沈む神秘的なエルサレムの街に感動したせいでしょうか・・・ついついこの写真をFacebookにUPしてしまいました。ヨルダンやイスラエルに行くとは言い出しにくいデリケートな時期で、みんなにはドバイに行くと言ってここまでやってきたのに、それをすっかり忘れてしまっていました。
数分後、携帯に日本にいる家族から国際電話が入りました。なんでバレたの?と思いましたが、岩のドームや神殿の丘の城壁がバッチリと写ったFacebookの写真を見れば、わたしがいるのがドバイではなくてエルサレムだというのは一目瞭然です。これで、バレないわけがありません。言ってなかったっけ?すごく治安が良いし、人も親切で良いところだよ!などと言い訳にもなっていない苦し紛れの会話を終わらせることで精一杯でした。
ちなみに、この時期のわたしは各国の名だたるモスクを訪問する機会に(たまたま)恵まれていました。そんなわたしの様子を見ていた家族はわたしの身の安全よりも、イスラム教への興味が高じてこのままISILにでも参加するんじゃないか・・・ということを心配していたようです。そんなわけないのに。イスラムの宗教美術に惹かれてはいましたが、あくまでも観光目的です。
声を大にして言いたい!わたしは(ほぼ)無神論者です!
誤解は解けましたが、家族にそんな風に(得体が知れない子だと)思われていたのか・・・と若干ショックでした。
短い滞在でしたが、最後にまた神殿の丘を眺めてエルサレムとはお別れです。古代から戦争のきっかけと言えば宗教と領土問題に相場が決まっているので、ここに来る前は、それらが常に同居するエルサレムという街は、どんなに殺伐とした雰囲気だろう・・・と思っていました。そこには、わたしの想像をはるかに超える平和な日常がありました。複雑な歴史があるので、揉め事がないはずはないのですが、彼らのそれぞれが折り合いをつけながら生活しています。もちろん、ひとたび争いごとが起きると取り返しがつかない事態になる可能性が大きいことをよく知っているからかもしれませんが。
雪で閉鎖されていたペトラまでのハイウェイが開通したらしいというニュースが飛び込んできました。ペトラ遺跡自体はまだクローズしているようですが、一縷の望みをかけて現地に向かってみることにしました。
イスラエルからヨルダンへの出入国は逆向きルートに比べると楽勝でした。入国が難しい国こそ出国が楽なのはよくある話です。イスラエルに来ることは二度と無いかもしれないので、記念に出国スタンプを捺して貰いたい気持ちもありましたが、10年パスポートを更新したばかりだったので、これから10年もアラブ諸国に入国できないとなると困ることがあるかもしれないと思って、行きと同じように「ノースタンププリーズ」で通しました。イスラエル出国時に貰ったのはピンクのカード。
キングフセイン橋を渡って再びヨルダンに入国を果たすと、ペトラに向かってデザート・ハイウェイを南下します。ヨルダンを縦貫するように砂漠の中を走るデザート・ハイウェイは、アンマンからマダバに向かう際に通ったキングス・ハイウェイとは違って舗装もきちんとされている真っ直ぐな道路です。その代わり、車窓から見える景色はほぼ砂漠のみ。単調なドライブが3時間ほど続きました。
冠雪した山々が見えてきました。
デザート・ハイウェイの終点はヨルダン最南端にあるアカバの街ですが、その手前でハイウェイから降り、ペトラの最寄りの街ワディ・ムーサに到着しました。宿泊したペトラ・セラホテルの前から見た市街地です。坂道の多いワディムーサは少し坂を登れば街全体を見渡すことが出来ます。
雪はすっかり溶けていて、翌日にはペトラ遺跡は入れそうだという嬉しいニュースをホテルの人から聞くことも出来ました。憧れの世界遺産はもうすぐそこです!
物語 エルサレムの歴史―旧約聖書以前からパレスチナ和平まで (中公新書)
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イエス・キリスト生誕の地「ベツレヘム」
朝早くにベツレヘムに向かいました。ベツレヘムは、ヨルダン川西岸地区南部にある3万人超が暮らすベツレヘム県の県都です。第3次中東戦争以降、イスラエル占領下にありましたが、1995年にパレスチナに返還され、現在はパレスチナ自治政府が治めています。未だに国際的にも微妙な立場にあるベツレヘムですが、世界最古のキリスト教共同体が存在していたことが知られていて、イスラム教徒が多数を占めるパレスチナの中にあって今でも最大のキリスト教コミュニティーが存在しています。
ベツレヘムとイスラエルとの境界に築かれたコンクリート製の分離壁が見えてきました。ベツレヘムに入るには、あの壁にある検問所を通らなくてはならなりません。返還後もイスラエルとドンパチやってるみたいだし、 刑務所を思わせるような高い壁のせいで物々しい雰囲気はありますが、主要産業は観光業なので、わたしのような見るからに観光客といった風体の外国人の出入りはそれほどハードルが高くないようです。10kmほどしか離れていないエルサレムにある職場に出勤して、夕方にベツレヘムの自宅に帰宅する勤め人も多いようでした。歴史を考えると当たり前ですが、出入りのハードルが最も高いのはユダヤ人なんだとか。ユダヤ人が崇拝してやまないダビデ王は生まれ故郷の現状をどう思っているんでしょうか。
ベツレヘムの街に入るとアラビア文字の看板が増えてきて、ヘブライ文字を見かけなくなります。ヘブライ文字とアラビア文字を併記していることが多いエルサレムとは明らかに雰囲気が違います。「STARS & BUCKS」という名前のカフェ発見!さすが、スタバはこんなところまで店舗展開しているのか!と驚きましたが、ロゴを微妙にパクった別物のようです。ベツレヘムの人々がスタバブランドに魅力を感じているようには思えませんが。
まず訪れたのはメンジャー広場。広大な広場に面して建つモスクが第2代正統カリフのウマル・イブン・ハッターブに由来するジャーマ・アル・ウマルです。高いミナレットが印象的なこのモスクが建造されたのは1860年。ベツレヘム最古であると同時に唯一のモスクとして街の中心に君臨しています。
お目当ての生誕教会は、メンジャー広場を挟んでジャーマ・アル・ウマルの向かい正面にありました。名前からわかるようにイエス・キリストがこの世に生まれ落ちたとされる洞穴の上に建てられたという聖地にして、わたしの大好きな世界遺産。339年に建てられた初期の聖堂は火災で焼失してしまいましたが、ユスティニアヌス1世によって再建された6世紀の聖堂は今でも健在。でも、これほどの聖地を1つのキリスト教会派が独り占めすることなど出来るわけもなく、エルサレムの聖墳墓教会同様に各会派(ローマカトリック・ギリシャ正教会・アルメニア教会)の共同管理になっています。そして、嘆かわしいことに警察沙汰になることも珍しくないくらい小競り合いしているとか。
聖誕教会の入り口の謙虚のドアは、高さ120cm程度のとても狭いもので、聖堂に入るためには身を屈めなければなりません。騎馬の侵入を防ぐためにオスマン帝国時代に改修されたものです。謙虚のドアというもっともらしい名前は聖堂に入る時の心構えを説いたものとかではなく、後付けされたもののようです。
礼拝堂に入ると、中は足場が組まれ(というか足場しかないような状況で)まさに絶賛修復工事中。普段なら運が悪い!とガッカリするところですが、ここに限っては修復工事おめでとうという気分です。各会派の意見がまとまらず長いこと手付かずだった修復工事がやっと始まったのは、2012年の世界遺産登録と同時に危機遺産リスト入りしたのがきっかけです。ユネスコの勧告を受けて政府も介入せざるを得なくなりました。2019年に危機遺産を脱しているので、恐らく工事が終わったんだろうと思います。
ギリシャ正教会の管轄である主祭壇は聖障が立てられ、たくさんのイコンが飾られ、とても煌びやかです。複数の会派が1つの教会に入ると変な競争意識が働くのか華美になる傾向があるような気がします。
修復のための足場が組まれた礼拝堂の床の一部がガラス張りになっていて、コンスタンティヌス帝が建立した当初のモザイク床を見ることができました。デザインや色彩まではっきりと確認でき、1600年以上前のものとは思えません。
イエス・キリストが生誕した洞窟を見るために、祭壇の背部にある地下への階段を降りていきます。
わたしの順番が来て、いよいよイエスが生まれた場所と対面!狭いスペースに燭台が並べられ、大理石の床に銀の十四芒星が嵌め込まれています。イエスが馬小屋で生まれたというのは有名な話ですが、当時の家畜小屋は洞穴にあるのが一般的だったとか。
18世紀にフランスから献上された床の十四芒星が表しているのは、アブラハムから始まって、ダビデ王以降も続くイエス誕生までの世代の数です。他の人のように床に口づけをしたりおでこを擦り付けたりするのは抵抗があったので、跪いて狭いスペースに頭を突っ込んで、とりあえず大きく深呼吸しておきました。
馬小屋なので生まれたてのイエスが寝かせられたのは、ベビーベッドではなくてこの飼い葉桶でした。馬小屋が洞穴というのも現代のわたしたちのイメージからはかけ離れていますが、飼い葉桶も四角い底石の周りに石の壁を立てただけのものです。
聖母子が煌びやかに描かれています。マリアのイエスを見つめる表情がとても穏やかで幸せそう。そもそもナザレ在住のマリアがなぜこの場所で出産することになったかというと、ローマ帝国政府の国勢調査のため本籍地のベツレヘムに呼び出されたからだそうです。ベツレヘムに来たユダヤ人はマリアたちだけではないので、宿泊先を確保が出来ず、頼み込んで宿泊した農家の馬小屋の片隅で出産ということになったわけです。
聖誕教会の中庭に出ると生誕教会と内部で繋がっている聖カテリーナ教会を外観を見ることができました。ローマカトリック教会によって1882年に建造されて以降、改築を繰り返してきたので、とても現代的で美しい外観をしています。淡い色合いのせいか穏やかな雰囲気があるので、この場所が2002年のパレスチナ・ゲリア立て篭もり事件の現場だったとは気がつきませんでした。
屋根の上にはマリア像が、教会の前には聖書学者のヒエロニムスの像が建てられています。ギリシア語、ヘブライ語をはじめとした諸言語に精通していた聖人ヒエロニムスは、全聖書を当時の主要言語であったラテン語に翻訳し、キリスト教を広めるに大きく貢献しました。足元の頭蓋骨は、彼の翻訳を支えた協力者のパウラのものです。
礼拝堂は、カトリック教会にしては飾り立てたところもなく全体的にスッキリとしたデザインです。クリスマスミサには、この場所に世界中のキリスト教徒が集まってきて、祈りを捧げる様子がテレビ中継されるそうですが、キリスト教徒専用チャンネルでもあるのか、今まで見たことはありません。
祭壇の後ろのステンドクラスは、シンプルな身廊の中でひときわ鮮やかに輝いています。イエス生誕に駆け付けた東方三博士が描かれています。彼らが遠方から駆け付けたことを表現するために、聖母子と三博士をそれぞれ左右に寄せて描かれることが多いこのシーンで、聖母子が中央に描かれている非典型的な構図をとっています。
作者や時代は不明ながら他にもこんな作品がありました。
最後に訪れたのはミルク・グロット教会。5世紀頃のビザンチン教会の跡に1872年に建てられた礼拝堂はよく手入れされていて古さを感じさせないかわいらしい外観をしています。ユダヤの王が誕生したことを知った猜疑心の強いヘデロ王が国中の幼子を虐殺してまわっている間、エジプトに逃れる前のマリアたち聖家族が避難していた場所だと言われています。
聖母子画が置かれたこの洞穴には、授乳中のマリアが追っ手から逃れるために急いで支度をしている時に溢れ落ちた1滴の母乳によって地面が一瞬でミルク色に変わってしまったという不思議な伝承があります。キリスト教徒に限らず母乳の悩みのある母親たちが世界中からお祈りに訪れているそうです。
母乳の悩みから派生していったのか、不妊の悩みでお祈りに訪れる人も多いとのこと。
「子供が生まれました報告」のお礼の手紙が壁一面に貼られていました。聖母マリアはともかく、教会の人が読めるとは思えないのですが、日本語の手紙もありました。子宝教会と言ったところですね。
ヘデロ王の故郷でもあり、その子孫に当たるイエス・キリストの生誕地でもあるベツレヘムは、ユダヤとの縁も深い街ですが、エルサレムと同様かそれ以上に歴史に翻弄されてきました。絡み合った歴史や宗教のあまりの複雑さに、みんなが折り合える形がどんなものか簡単には想像もつきませんが、この地域の人々が長く平和に暮らせることを願ってやみません。
イエスの歩いた最後の道「ヴィア・ドロローサ」
イエスが処刑された当時のエルサレムはローマ帝国の支配下にありました。ユダヤ教徒ではない総督のピラトにとって、イエスのキリスト自称など取るに足らないことでしたが、ユダヤの指導者たちに扇動された群衆を納得させるためにはイエスの処刑を認めざるを得ませんでした。ユダヤ教のあり方を批判し、人々に神の教えを説いたイエスに対する指導者たちの怒りは、イエスを亡き者にしなくては収まらないほど大きいものになっていたのです。処刑の権限を持たない彼らは、権限を持つローマ帝国側にそれ相応の罪状でイエスを引き渡す必要がありました。そのためにイエスにつけられた罪名は「ローマ帝国に対する反逆罪」という最も重いものでした。
十字架を背負ったイエスが最後に歩いた総督ピラトの官邸からゴルゴダにある聖墳墓教会までの道は、イエスやマリアをふくむ多くの人々の深い思いが込められてヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれています。自然発生的に巡礼者が増えてきたことで、14の留(ステーション)が設けられ、伝統的な巡礼路の1つに数えられるようになりました。わたしも全長1kmの悲しみの道を歩いてイエスの苦しみの追体験を試みることにしました。
第1留は、総督ピラトの官邸があった場所とされています。現在は、エル・オマリヤ・スクールというイスラム教の男子校となっていて、中に入ることは出来ません。
第2留には、鞭打ちの教会が建てられていました。この場所で鞭打たれたイエスは、着せられていた衣類を剥ぎ取られ、イバラの冠を被せられてユダヤの王様と嘲笑された上に自らの処刑のための十字架を背負わされたんだそうです。
第3留は、拷問を受けて既に衰弱していたイエスが十字架の重みに耐えかねて、初めて倒れこんだ場所です。現在は、アルメニア使徒教会の聖堂が建てられていました。
第4留は、第3留と同じくアルメニア使徒教会の敷地内にありました。マリアが十字架を背負って歩くイエスを見たとされるこの場所には、現在は苦悩の母マリア教会が建てられています。教会の入り口にはその様子がレリーフとして描かれています。
マリアの悲しみを慮って多くの人々が祈りを捧げに訪れていました。罪人の汚名を着せられて死に向かう我が子の姿を見る母親の心情たるや容易には想像できません。
イエスに代わって十字架を担いだキレネ人シモンを記念した第5留も、第3・4留と同様に多くの人が行き交うアラブ人街のエル・ワド通りにありました。たまたま近くに居合わせたことで弱ったイエスの代わりに十字架を背負うことを命じられたシモンは、現在のリビア東部にあたる港町キレネ出身のユダヤ系の人だったと推測されています。
第6留は、ゴルゴダの丘に向かう長い上り坂の途中にありました。第5留から西に続くこの小路はヴィア・ドロローサの中にあってヴィア・ドロローサ通りと呼ばれています。ヴェロニカという女性がイエスの顔を布で拭ったのがこの場所です。後にイエスの顔が浮かび上がったこの布は「聖顔布」として崇敬を集めるようになりました。ヴェロニカ自身もカトリック教会とギリシャ正教会の聖人の仲間入りを果たしています。
イエスが2度目に倒れた第7留は、ヴィア・ドロローサ通りとハーン・アル・ザイト通りの交差点にありました。イエスがつまずいたのは城壁の外に通じる「裁きの門」の敷居でした。他の死刑囚と同様にイエスの罪状もこの門の上で読み上げられたそうです。
第8留は、イエスがエルサレムの娘たちに向かって「私のために泣くな、自分たち、または自分の子供たちのために泣くがよい」と語った場所とされています。現在はギリシア正教の聖カラランボス教会が建ち、壁には十字架が刻まれていました。
第9留からはゴルゴダの丘の上になります。処刑場からほど近いハーン・アル・ザイト通りの西側の小さな商店の脇の階段を上がった通路の奥のこの場所で、イエスは再び倒れこみました(3度目)。すぐ目の前には聖墳墓教会のドームが見えています。
ようやくヴィア・ドロローサの第10留から第14留がある最終地点の聖墳墓教会へ到着しました。聖墳墓教会は、イエスが十字架刑に処せられたゴルゴダの丘の岩場を取り囲むように建てられていて、処刑場のあった岩場上が教会二階部分、イエスの墓のある岩場下が教会一階部分に相当します。その周囲をキリスト教各派(ギリシヤ正教会、アルメニア使徒教会、シリア正教会、カトリック、コプト正教会)の聖堂が取り囲んでいます。第9留から見えていたのそのうちのコプト正教会の入り口部分でした。
教会の南側にある前庭から入っていくとエチオピア正教会の修道院が見えてきます。聖カラランボス教会があるためイエスが歩いたルートからは少し外れますが、エルサレム観光の中心地点とも言えるこの場所にはヴィア・ドロローサを巡礼しない観光客でも必ず訪れますので、迷うことはありません。
入場待ちをした聖墳墓教会の前の広場です。チラッと見ただけでもこの教会が建て増しされてきたことがわかります。この教会の歴史は、325年にローマ皇帝コンスタンチヌス1世がキリスト処刑地であるゴルゴダに教会建築を命じたことによって始まりました。しかし、ハドリアヌス帝によってローマ風の都市に作り変えられていた当時のエルサレムではゴルゴダの丘がどこかもわからなくなっていました。皇帝の母ヘレナが磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見したことで、この場所がゴルゴタの丘と推定され、建てられたのが聖墳墓教会です。イスラム教徒による破壊で教会そのものが無くなったこともありましたが、この土地を奪還した十字軍によって12世紀に修築されたと言われています。現在の聖墳墓教会のロマネスク様式の外見は、主に十字軍時代のものだそうです。
教会入り口のファサードです。聖墳墓教会の中に共存するキリスト教各派は、自分たちこそ真のキリスト教会だと思っているので必ずしも円満に共存しているわけではないようです。特にこの教会の鍵の管理については大いにもめた経緯があり、聖墳墓教会に執着のない第3者の協力を得ることになりました。慣習として長らく鍵を管理しているのは教会の前で商店を営むイスラム教徒一家なんだそうです。理にかなってはいますが、仲裁に入るのがイスラム教徒というのがなんだか不思議ですね。
聖墳墓教会2階部分の外側に突出した小さな聖堂にある第10留は、十字架に磔られる前のイエスが衣服を剥ぎ取られた場所です。ゴルゴダの丘の岩上にあたる教会の2階部分に向かう人々で身動きが取れないほどごった返していました。
第11留で十字架に磔にされたイエスが息を引き取った第12留には、磔にされたイエスの祭壇がありました。イエスはアラム語で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫んで息を引きとったそうです。衰弱しきったイエスの最期の叫びとこれまでの経緯を思うとあまりの悲痛さにキリスト教徒でないわたしでも胸が締め付けられました。
十字架から降ろされたイエスの遺体を受け止めたと言われているマリアの悲しみの像が飾られた第13留の祭壇は第11留と第12留の間にありました。
かつて、第13留は教会1階の塗油の石とされてきました。息絶えたイエスが横たえられて埋葬処置を施されたとされる板状の石の前では多くの人が長く足を止めていました。
ヴィア・ドロローサの終点となる第14留は、イエスが葬られ、かつ復活を果たしたゴルゴダの丘の中腹にあった岩の洞窟跡を囲った墓所です。聖墳墓教会が建てられた際に完成したロトンダ(円形建築物)の中央に、2〜3人しか入れないような完全なるサンクチュアリ(聖域)として存在していました。この場所もエルサレムの街の他の部分と同じように破壊や再建を繰り返してきましたが、2016年に200年ぶりの修復に着手したそうです。1年の予定だったそうなので、すでに公開されていると思われます。
埋葬から3日後にイエスは復活したとされているので、この場所は第14留(イエスの墓)であると同時に第15留(イエスの復活の場所)であると考える人もいるそうです。それ故にアナスタシス(復活聖堂)とも呼ばれています。当然ながら墓の中にイエスの御遺体はありません。ロトンダの天井から差し込む神秘的な光を見ているとイエス復活は必然のようにも思えてきます。
数多くの部屋や聖堂がひしめく聖墳墓教会の中で最も広いのは、アナスタシスの向かいにあるギリシャ正教のマルチュリオン(殉教聖堂)です。
天井にはイエス・キリストのモザイク画がありました。
マルチュリオンにはギリシア正教会にとっての世界の中心がありました。世界の中心という言葉はわたしの好物の1つ!その響に心を揺さぶられましたが、この世界の中心なるものは、毎日の掃除の度にちょっとずつ移動すると知って軽い失望を覚えたのは言うまでもありません。
キリスト教各宗派が共存する聖墳墓教会は、競い合って飾り立てられていることもあり、正直なところゴチャゴチャした感じが否めません。この内輪もめみたいな状況をイエス・キリストはどう眺めているのでしょうか。各宗派のこの聖地に対する熱心な思いは十分に伝わってきましたけど。
嘆きの壁にみる悲しきユダヤの歴史
シオン門をくぐった旧市街の南西部はアルメニア人地区です。アルメニア料理のお店やお土産物屋さんが並んではいますが、人通りも少なくとても静か。アルメニア人地区がキリスト教地区・イスラム地区・ユダヤ人地区と並ぶエルサレムの4地区に数えられることが意外にも思えますが、アルメニアは世界で最も早くキリスト教を国教とし、エルサレムに早くから教会や住居を建設して確固たる地位を築いてきました。他の宗派とは一線を画した独自性のおかげでイスラム支配時代でさえその地位を保ってきたんだそうです。
長く迫害を受けてきた少数派のアルメニア人は、城壁に囲まれたエルサレム旧市街の中にさらに壁を設けてアルメニア人地区を築いています。つまり城壁の町の中に城壁の町を作っているのです。アルメニア地区の中心とも言える聖ヤコブ大聖堂はこの壁の奥にありました。
聖ヤコブ大聖堂は、この場所で殉教したイエスの12使徒の1人である聖ヤコブを記念して11世紀に建てられたものです。エルサレム屈指の美しい宗教建築と言われていますが、内部に入れるのは15時からたった30分だけ。どうしても時間をやりくりできず、今回は外観だけの観光になってしまいました。
大聖堂の入り口には、イエスを真ん中にして両脇にヤコブとヨハネが描かれています。多くの聖人の中にマリアの姿はありません。永眠教会で推しメンだった聖母マリアは、アルメニア正教会ではそれほど崇拝されていないんだそうです。
アルメニア人地区からユダヤ人地区に入っていくと、絵に描いたような正統派のユダヤ教徒を見かけるようになります。正統派のユダヤ教徒を目にするのはこれが初めて。これまで出会ったユダヤ教徒はせいぜい頭にキッパを載せているくらいでしたが、聖地で暮らす正統派だけあって高さのある黒いハットと黒のロングコートを身につけ、髪と一緒にカールした長いもみあげという典型的な姿です。制服のように年中同じ格好だそうです。その姿からも彼らの勤勉さや生真面目さが伝わってきて、ほぼ無宗教でフラフラと生きているわたしのような適当な人間は恐れ慄いてしまいます。記念写真でもお願いしたいところですが、遠くから後ろ姿を隠し撮りするだけにしておきました。
ローマ植民地時代のカルド(列柱通り・メインストリート)が、ダマスカス門とシオン門を結ぶように旧市街を貫いています。現在の道路と比べるとだいぶ掘り下げられた場所にコリント様式のシンプルな列柱が並んでいます。この列柱は大通りの両側に並んでいたものですが、道路の片側半分だけしか発掘されていないので、1列だけが見えている状態です。メインストリートだけあってカルドの道幅はかなり広かったようです。
ローマ軍によって破壊されたエルサレムを南北にカルドが貫くローマ風の都市に作り変えたのはハドリアヌス帝でした。135年にローマから運んできた大理石でカルドの北半分が作られ、その後のビザンチン時代にユスティニアヌス帝が南側を拡張して完成したそうです。長い歴史の中で完全に破壊され地下に埋もれていたカルドがヘブライ大学のアヴィガド教授によって発掘されたのは、1967年の第三次中東戦争の後のことでした。
カルドの壁には、マダバ地図のレプリカが掲示されていました。現物のマダバ地図は巨大なので、エルサレムだけを切り抜いてあります。確かにマダバの聖ジョージ教会の床で数日前に見たモザイク画の地図のコピーです。6世紀に作られたマダバ地図にもカルドがはっきりと描かれています。ちなみに、カルドとほぼ並行して神殿の丘に向かう通りが第二カルドで、こちらの遺跡の断片も各所で見つかっているそうです。
かつてのカルドの様子が描かれた絵がありました。もちろん、想像の域を出ないものだとは思いますが、列柱の両側には商店が立ち並んで、かなりの賑わいを見せています。
現在のカルドもショッピング街としてかつてのように賑わっています。
旧市街を東側に進み、嘆きの壁の西側の丘までやってきました。目の前の広場の向こうには立ちはだかる高い壁が嘆きの壁で、そのすぐ向こうにイスラム教の聖地である岩のドームが見えています。壁に向かって祈るユダヤ人の姿が嘆き悲しんでいるように見えることからそう呼ばれるようになったそうですが、旧市街の東側にそびえるこの壁には西の壁という本来の名前があります。この壁がかつての神殿の西側にあったことから付けられた名前だそうです。
この場所の歴史は、紀元前1000年頃にソロモン王(ダビデ王の息子)が自然の高台を利用して第1神殿を建てた時に始まりました。紀元前586年に新バビロニア王ネブカドネザルによって第1神殿は破壊され、捕らえられたユダヤの人々はバビロンに強制移住させられてしまいました。帰還した人々によって70年後に再建された第2神殿はヘロデ王の時代にはユダヤ黄金時代を象徴する見事な神殿となりました。しかし、紀元70年にローマ軍によって再び破壊され、部分的に残ったのが現在の西の壁です。ローマ人は、神殿の丘にゼウスを祀り、ユダヤ人が街に入ることを禁じて、彼らを徹底的に弾圧しました。ミラノ勅令で彼らが1年に1日だけ嘆きの壁で祈ることを許されるようになったの200年の時を経た4世紀のことでした。1948年の第1次中東戦争でイスラエルが独立を勝ち取った後もこの場所はヨルダンの管理下に置かれて、1967年の第3次中東戦に完全勝利して念願のエルサレムに帰還を果たした時には、かつての神殿の丘はイスラム教の聖地に変わり果てていました。破壊をまぬがれたわずか60mの西の壁だけが唯一の祈祷所です。そこに集うユダヤ人たちは泣いているように見えるのではなくて、本当に心で泣いているのです。
イスラム教の管理下にある壁の向こうに、イスラム教の聖地岩のドームがひときわ輝きを放っています。このドームは3大宗教にとって重要とされる聖なる岩を祀って7世紀末に作られた記念堂であって、礼拝所を持つモスクではありません。かつては木造だった直径20.4m・高さ36mのドームは、1960年の修復以降は、鉄骨の上に金メッキのアルミ板を被せたものになっています。有色大理石で幾何学模様の装飾が施された外壁の中でも特に美しいのはドーム直下の部分です。スレイマン1世がトルコから動員したタイル職人らの手による装飾タイルは、青を基調とした緻密で鮮やかなデザインで、もはや外壁というより芸術作品の域です。
岩のドームの北側にアル・アクサー・モスクの銀色のドーム屋根とミナレットが見えています。現在の姿になったのは1066年ですが、ワリード1世によって715年に建てられて以降、何度も再建されたので初期の原形を留めていません。岩のドームとともにイスラム教の聖地となっています。
嘆きの壁に通じる通路では入念なセキュリティチェックが行われます。ここがどういう場所か少しでも知っていれば納得ですが、それでも金属探知機を通り、手荷物をX線検査にかけるという空港並みの厳戒態勢には少し気持ちが怯んでしまいます。壁のそばまで行くにはシナゴーグと同様に男性はキッパと呼ばれる小さな帽子を被らなければなりません。頭頂部を覆うことで神への敬意を表すという意味があるようです。観光客用にナイロン製のキッパを貸し出していました。
この地方で採れる白い石灰岩「エルサレム・ストーン」でできた壁の上部にはヒソプと言われる香り草が生え、左手にはウィルソン・アーチと呼ばれるトンネル状の祈祷所が口を開けています。壁の下から7段目までは第2神殿時代のもので、その上の4段が7世紀のウマイヤ朝時代に付け足されたもの、さらにその上に14段に積まれた小さな石はオスマン帝国時代のものです。最上部の3段は1967年にイスラム教の宗教指導者によって積まれました。現在の壁の高さは地上21mもありますが、地下には第2神殿時代の石がまだ17段も埋まっているんだそうです。あらゆる時代の石が積み重なった壁には、ユダヤの人々に次々と襲いかかった苦難の歴史が表れています。
シナゴーグやダビデ王の墓と同様に嘆きの壁も男女のエリアがパーティションで区切られていました。右側の女性用スペースは、男性の半分くらいしかない上に、女性の方が多いので壁の前はまさに芋を洗うような混雑ぶりでした。なんとか壁の前に立つことが出来たので、周りに倣って壁に手をついて祈ってみました。ユダヤ教徒にこれ以上の苦難が降りかかりませんように・・・。ふだんのわたしを知る人には嘘くさく聞こえるかもしれませんが、各地に離散させられたユダヤ人が近代でも辛い目にあった歴史(ホロコーストの悲劇)を知っていたら、壁に手をおいて涙を流す本物のユダヤ教徒のためにそう願わずにはいられません。
嘆きの壁に積まれた石の隙間には、願い事が書かれた小さな紙がギッシリと詰まっていました。まるで日本の神社でおみくじを結ぶ木の枝を探すかのようにどうにかこうにか隙間を探して、わたしも願い事を書いた紙を差し込んでみました。
近くにいた関西からの団体ツアーのおば様方の話し声が聞こえてきました。「願い事を5つ書いた」とか「神様にボーイフレンドをお願いした」とか。神様も大変だなぁと思わず笑ってしまいましたが、その時にエルサレムに来て初めて笑ったことに気がつきました。
ペンブックス19 ユダヤとは何か。聖地エルサレムへ (Pen BOOKS)
- 作者: 市川裕,ペン編集部
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- 発売日: 2012/12/12
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ダビデ王の墓と最後の晩餐の部屋があるシオンの丘
エルサレム旧市街の南西のシオン門の外の一角はシオンの丘と呼ばれています。真っ先に思い浮かぶのは、イスラエル建国の父ヘルツルが起こしたシオニズムですが、シオンとはエルサレムの古い呼び名です。ヘルツルがヨーロッパ中のユダヤ人に「祖先の土地シオン(エルサレム)へ還ろう!」と呼びかけたことで1948年のイスラエル建国が実現しました。かつてユダヤ教の司祭や貴族が多く住んでいたシオンの丘はユダヤ教徒にとって所縁のある土地のはずですが、なぜかこの辺りにあるのはキリスト教会ばかりで、シナゴーグの姿はほとんど見当たりません。それもそのはず、ソロモン王の時代にあったオリジナルのシオンの丘は、エルサレム旧市街の岩のドームが建っている神殿の丘辺りのことを指しているからです。この辺りがオリジナルを差し置いてシオンの丘と呼ばれている理由はわかりません。
狭い路地の間からマリア永眠教会が見えてきました。キリスト教会としてはエルサレムで最も大きいとされる美しい教会です。
カトリック教会最古の修道会であるベネディクト会によって聖母マリアが晩年を過ごしたとされるこの場所にネオロマネスク様式の教会が建てられたのは、紀元前4000年からの歴史をもつエルサレムにあって、比較的最近の1910年のことでした。建設には10年の歳月が費やされたそうです。
背面から見たマリア永眠教会です。どっしりした造りの建物には、正面の2本と合わせて4本の尖塔があることがわかります。
窓から差す光が仄かに照らしてはいるものの、礼拝堂の内部は薄暗く、高い天井も相まってとても厳かな雰囲気に溢れていました。礼拝堂の壁に散りばめられたモザイク画がとても煌びやかで神秘的な輝きを放っています。
正面に設けられた祭壇の天井には、まだ幼いイエスと寄り添う聖母マリアのモザイク画がありました。イエスを見つめるマリアの穏やかな表情が印象的です。
床のモザイクタイルのデザインが、クラシックでステキです。礼拝用の椅子が置かれているので、一部しか見ることができませんが、三位一体や12使徒・12宮が描かれていました。教会に12宮なんてピンと来ませんでしたが、驚くことに黄道十二宮星座は、イエス・キリストによる救いの物語(福音)を表わしているんだそうです。
礼拝堂の壁にある半球状の窪みには聖書に関わる場面が描かれていて、なかなか見ごたえがありました。このモザイク画に描かれているのは有名な東方三博士の来訪ですね。礼拝堂の中にはモザイク画も含めて聖母マリアを描いたものが多数を占めていて、教会の名前を知らずに迷い込んだとしても誰に捧げられた教会かは一目瞭然です。
地下聖堂の中央に桜の木と象牙で作られたマリアの像が横たわっていました。ヨハネの福音書には、イエスは自分が処刑された後の母マリアの世話を弟子のヨハネに託している記述があります。マリアはヨハネに引き取られて10年後に亡くなったそうです。
地下祭壇にはキリストの12使徒のモザイク画がありました。
シオンの丘の見所は、マリア永眠教会だけではありません。教会のすぐ近くに、1階にダビデ王の棺が収められ、2階でキリストが最後の晩餐を行ったとされるすごい建物がありました。実際は建て増しを繰り返しているのでとても大きな建物ですが、市街地の中では、行列がないと通り過ぎてしまいそうなごく普通の建屋に見えました。
その建物の目印となるのが、竪琴を奏でるダビデ像です。ダビデ王は紀元前1000年頃に在位した古代イスラエル王国2代目国王です。エルサレムを中心とした統一国家を作り、息子のソロモン王と共にイスラエルの最盛期を築いた伝説の国王が手にしているのは弓や槍ではなく竪琴であることに違和感を感じましたが、ダビデ王は音楽や詩歌にも秀でていて、当初は楽師として初代王サウルに仕えていたそうです。羊飼いから王に成り上がった武功の持ち主なので、優れた武人であったことは疑いようもありませんが、天は二物も三物も・・・の典型のような人物なのでしょうね。
ダビデ王の墓はユダヤ教徒にとっての聖地なので、観光と関係なく訪問者が多いようです。墓のある部屋には男性用と女性用の入り口が別々に設けられていました。男女が同じ部屋で祈りを捧げることが許されていない正統派のユダヤ教関連施設ならではのスタイルです。わたしも他の参拝者に習って左側の女性用入り口から入室しました。
ダビデ王の紋章である六芒星が掲げられた鉄製のドアをくぐると、左右を壁で仕切られた部屋の奥に大きな棺が安置してありました。部屋の広さは5㎡ほどしかないため大きな棺がさらに大きく感じます。棺は金糸で刺繍された豪華なビロードの布に覆われていました。人々は、棺の前に跪いたり、棺に縋ったり、腰掛けて聖典を紐解いたりしながら、熱心に祈りを捧げています。壁の向こうの男性用の部屋でも同じような光景が繰り広げられていることでしょう。時折涙を流しながら祈る人の姿を見ていると観光客の自分がとても場違いに思えて、なんだか居たたまれない気持ちになってきました。
イエス・キリストが処刑の前に弟子たちと食事をとった最後の晩餐の部屋は、ダビデ王の墓の上の階にありました。イエスはダビデの子孫とされていますので、最後の晩餐が先祖のお墓の上だったなんて何か不思議な力が働いているように思えます。
歴史の瞬間に立ち会うような気持ちでドキドキしながら足を踏み入れた先にあったのは、レオナルド・ダヴィンチの名画の雰囲気とは程遠い小さな空間でした。この部屋は、130年頃から存在した原始キリスト教の集会場を基にした4世紀のビザンチン教会の跡と考えられています。12世紀に十字軍によって再建された名残が十字を成すヴォールト天井に見て取れます。オスマントルコ時代にはモスクとして使用されたので、南側の壁にはイスラム教の聖地メッカの方角を示すミハブがありました。小さな部屋に凝縮された三大宗教の絡み合った歴史に思いを馳せるとなんとも言えない気持ちになります。
ステンドグラスもモスク時代を彷彿とさせるアラビア文字とムスリム模様です。
建物の外観です。イスラエル伝説の王が眠る墓所の上でイエス・キリストが最後の晩餐をとり、十字軍が修復した建物の上にはモスクのミナレットがそびえている・・・まさに、3大宗教の聖地エルサレムを体現したような建物でした。
シオン門は、旧市街の城壁の南側にありました。門のすぐ外にダビデ王の墓があることから預言者ダビデの門とも呼ばれているそうです。石灰岩でできた大きなシオン門には大きな銃を携帯した数人の兵士が常に張り付いていました。
シオン門に残ると無数の生々しい弾痕は、イスラエル独立によって周辺アラブ諸国との間に勃発した1948年の第一次中東戦争の時のものです。イスラエルは、この戦いで独立を勝ち取りながらも、最も肝心な聖地エルサレム旧市街をヨルダンに委ねるという辛酸を舐めました。第3次中東戦争での完全勝利で、1967年には聖地を取り戻すことができましたが、常に兵が張り付いている様子には、この門を死守するという強い思いが表れているようです。
シオン門から旧市街に足を踏み入れます。
死海とヨルダン・イスラエル国境超え
次の目的地はペトラのはずでしたが、ペトラに向かうハイウェイは相変わらず不通のままだし、雪に埋もれたアンマンに戻っても仕方ないので、目的地を変更して死海に向かうことにしました。死海近辺に積雪がないのはネボ山からも確認済みだし、死海を眺めながら旅程を立て直してこの旅を仕切り直したいと考えたからです。
ネボ山から死海のほとりのリゾートホテルに向かう道沿いにロマ民族らしき人々の姿がありました。あんまりジロジロと見てはいけないと思いつつも、荒野のど真ん中に身を寄せ合うように張られた粗末なテントで流浪の民がどんな暮らしをしているのかは興味があります。この生活を選ばざるを得なかったのかあえて選んだのかわかりませんが、学校に通っていてもおかしくない年格好の子供の姿もありました。
30分ほどで死海に到着。子供向け科学雑誌で読んだ世界七不思議のひとつを目の前にしたらどれだけ感動するだろうか・・・と思っていましたが、見た目は、ごくごく普通の湖で、塩分濃度が30%もあるようには見えません。それどころか、湖畔には観光客が寛ぐためのロッキングチェアやパラソルまで並んでいました。リゾートホテルに泊まっているお前が言うなというご意見はあるかもしれませんが、完全にリゾート地化した秘境感ゼロの死海に軽く失望したことは言うまでもありません。
悲鳴をあげながら水の中に入っていった観光客も、一通りの浮遊体験を終えるとアッと言う間にいなくなっていきます。死海周辺が暖かいとは言いながらも、すぐ近くで数十年ぶりの大雪が降った直後なので泳ぐには寒すぎたようです。それに優雅に読書できるほど波穏やかでもありませんでした。泳がなかった代わりに死海の水を舐めてみたら、塩辛いというよりも強い苦味を感じました。にがりの素である塩化マグネシウムが多量に含まれているようです。そう言えば、イッテQで死海の水で豆腐を作る企画をやったことがありましたよね。
夕陽が沈む様子はまるで海を見てるようです。なぜこんなところに死海が生まれたのか・・・。実はこの場所は白亜紀以前には海だったと考えられています。海底隆起によってパレスチナ付近が高原になった一方で、この場所には生まれた断層は海から取り残された湖になりました。気温が高い上に年間降水量が極端に少ないという気象条件下では、湖水の蒸発が速く、唯一の水源であるヨルダン川からの供給が追いついていきませんでした。こうして、海水の10倍の塩分濃度の死海が出来上がっていったのです。
リゾートホテルらしく、死海の泥を使った美容関連商品もたくさん揃っていましたし、スパも充実していました。文句を言いながらもリゾート気分を味わったわけです。
翌朝の死海です。朝靄のかかった死海はとても神秘的でした。対岸に見えているイスラエルが蜃気楼のようです。死海を見ながら旅程を練り直した結果、ペトラまでのハイウェイがいつ開通するかわからないので(もしかしたら今回は行けない可能性もあるので)、ヨルダンを一旦離れてエルサレムに向かうことにしました。
タクシーで国境に向かう途中には、だいぶ朝靄も晴れてきて、対岸のイスラエルの姿がハッキリと見えてきました。
最寄りの国境は死海のすぐ北を流れるヨルダン川にかかるキングフセイン橋にありました。これはあくまでもヨルダン側の呼び名で、同じ橋をイスラエルの人はアレンビー橋と呼び、その他のアラブ人はアル・カラマー橋と呼ぶんだとか。橋の手前4kmくらいの場所にヨルダンの出入国審査場がありました。ヨルダンからイスラエルへの国境越えは、世界で最も出入国審査が厳しい国境の1つと言われています。中東エリアの複雑に絡み合った宗教とそれに伴う歴史や政治を思えば仕方ありませんが、旅人にとって最大の難所であることに違いありません。
まずは、ヨルダン側国境で出国審査。親日国家ヨルダンだけあって審査官はとてもフレンドリー。でも、その笑顔に油断して最初のミッションを怠ってはなりません!それは、審査官に「ノースタンププリーズ」とお願いしてパスポートへの出国スタンプを阻止すること。というのも、パスポートにイスラエル出入国のスタンプを押されてしまうと、イスラエルと敵対関係にあるアラブ諸国へ入国することができなくなってしまうからです。イスラエルでどんなに頑張ってスタンプを防いだとしても、ここでヨルダン出国のスタンプを捺されてしまうと漏れなくイスラエル入国がバレてしまうことになります。ヨルダンの審査官も慣れているので、よっぽど意地悪な人かポーっとした人に当たらなければ不用意にパスポートにスタンプを押されたりしないようですが、念のため伝えておくのがベターでしょう。
パスポートとともに「名前・出身国・パスポートNo.」を記入した指定の用紙を提出して出国税を支払えば、無事にヨルダン出国。パスポートにスタンプを捺される代わりに出国スタンプが押された「別紙」を貰うことができました。出国事務所の前で待っていたバスに乗ってイスラエル側国境に向かいます(バス乗り場でチケットが買えます。)10分ほど走って一時停止したバスに乗り込んできた審査官らしき人が先ほど貰ったばかりの「別紙」を回収していきました。
バスが緩衝地帯を進んでいると道沿いに監視台がありました。誰もいない監視台もありますが、それでもなんだか緊張してしまいます。
両国境の間は、5kmほどしか離れていませんが、国境が開いている時間が限られているせいか緩衝地帯は渋滞気味です。バスがキングフセイン橋を渡っている時に、橋の欄干に「JAPAN」と書かれたプレートを見つけました。なんと、この橋は日本のODAの援助で建設されたんだそうです。ODAに免じて国境で手加減してくれたらいいのに・・・。
更に荒野の中の緩衝地帯を進みます。ヨルダン側国境を出て 小一時間ほどで境界線の西側約1kmの地点にあるイスラエル側の国境に到着しました。
予想通り、イスラエル側の国境には入国審査を待つ人々の長い列ができていました。スーツケースを荷物窓口に預けて、割り込みと戦いながら、その長い列に並びました。まずはセキュリティチェックからです。空港等でもお馴染みの手荷物検査と身体検査ですが、爆弾でも探しているかのように1人ずつ念入りに検査されます。時として何も考えてなさそうと言われるくらい平和な顔つきのわたしは、金属性のアクセサリーや精密機器とも縁がないので、ここは難なくクリアしました。
そして、いよいよ今回のクライマックスとなる審査官との戦いです。入国審査はパレスチナ人用とその他外国人用に分かれていました。(イスラエル人はこの出入国審査場を通ることができません。)少しでも心証を良くしようとハローと声をかけてみましたが、入国審査官の表情はピクリともしません。そして、矢継ぎ早に質問が飛んできます。内容は他の国の入国審査でも聞かれるような一般的なものが大半でしたが、1つ1つは大したことなくても根掘り葉掘り聞かれると、なんか、わたしって歓迎されてないみたい・・・と萎縮してきてしまいます。最後の質問が終わるや否や審査官はわたしのパスポートを持ってどこかへ行ってしまいました。大人しく待つこと約30分。戻ってきた審査官は、ここで初めての笑顔を見せながら、パスポートと同じ写真がついた入国カードを渡してくれました。どうやら放置されてる間にこれを作ってたようです。
思ったより楽勝でしたが、それでも2時間は経過していました。ちなみに、イスラエルと国交がない国への入国履歴があったり、パレスチナへ行く予定があったり、イスラエルでの滞在先が決まってない場合は、さらなる質問攻めにあったり、拘束されて入国拒否されることもあるそうです。わたしがいる間にも別室に呼ばれていく外国人を何人も見ましたから。わたしの勝因は、「パレスチナへ行く予定がない」と答えたことでしょうか。行かないわけないんですが、予定ごときで拘束されたらたまりませんから。
この入国審査の後も、なんのためかわからないパスポートチェックがありましたが、預けたスーツケースを無事にピックアップすることができました。出口の両替所でイスラエル・シュケルを入手し、再びバスでエルサレムに向かいました。約1時間のドライブで周囲を塀に囲まれたエルサレムの街が見えてきました。
モスクのミナレットかと思いましたが、旧市街の丘の上にそびえている塔は聖墳墓教会の鐘楼のようです。
エルサレムのシンボルとも言える黄金色の岩のドームも見えてきました。ここからも市街地のあちこちにミナレットが立っているのがわかります。
いよいよ世界三大一神教の聖地が集中している神秘の街エルサレム観光の始まりです。
モザイクの街マダバで見た世界最古のマダバ地図
ネボ山の次に向かったのは10kmほど南東に位置するマダバという地方都市です。マダバは、マダバ県の県都で約60,000人の人が暮らすヨルダンで5番目に大きい街、そして「モザイクの町」として知られています。アンマンからそれほど離れていないというのにマダバの市街地に雪はほとんど残っていませんでした。観光スポットだけでなくレストランやショップが街の中心部に集まっているので徒歩で十分に観光できます。何より人が親切!英語が理解できない人もジェスチャーを交えて一生懸命にこちらの質問に答えてくれます。
特筆すべきは、この街がキリスト教徒の街だということです。ヨルダン国民の9割がイスラム教徒ですが、数少ないキリスト教徒がマダバに集中して暮らしています。市民の4割近くがキリスト教徒というのはヨルダンでは驚異的な数字です。確かにマダバの地図を見ると、イスラム国家とは思えないくらいたくさんの教会がありました。そうは言っても半分以上はイスラム教徒なので、ガイド本に何の情報ものっていないようなモスクでも街中では圧倒的に目立っていましたけど。
黄金色のドームがとても豪華で、高いミナレットがひときわ目を引きます。どの地図を見ても「モスク」としか書いてありません。立地条件と存在感を考えると、それなりの名前が付いていても良さそうな立派な建物です。
聖ジョージ教会正面です。マダバにわざわざやって来たのは、この小さな教会に残る世界最古の「エルサレムを含むパレスチナの地図」を見るため。1400年以上も前に描かれたモザイク画の地図だなんて、いくらわたしに世界史の知識がなかったとしても興奮しないわけがありません。
聖ジョージ教会の外観はいたって質素で、この中にすごいモザイク画がありそうには見えない小さな教会でした。昔は、もっと大きな教会だったようですが、8世紀後半の大地震で崩壊して以降、長らく廃墟だったとか。1897年に教会建設のために土地を造成したところ、教会の土台とともに巨大なモザイク画が発見されました。どうやら560年に築かれた古代ビザンチン時代の教会の床だったようです。教会の名前がモザイクで書かれているのもモザイクの街の異名を取るマダバらしいですね。
教会の内部は、外観の質素な雰囲気とは打って変わって実にカラフルでした。この教会ではギリシア正教会としてのミサが現在も執り行われているそうですが、モザイク画を保護するために椅子や机の配置が不自然です。ちなみに、この教会の聖ジョージはドラゴン退治の伝説で有名な聖人ゲオルギウス(ジョージ)のことです。
教会の壁面は、ギリシア正教会特有のイコンで飾られています。それにしても鮮やかなことで・・・。
教会の床にあったのがパレスチナと周辺国がモザイクで描かれた最古の地図です。所々に欠けた部分がありますが 、とても精巧で美術作品としても見応えがあります。ビザンチン時代のものとは思えないほどしっかりと発色していますが、それはモザイクに使われているのが、陶器の彩色タイルではなくて、天然の岩石だからだそうです。天然石ならタイルと違って色彩の派手さには欠けるかもしれませんが、丈夫で色褪せることもありません。一般的な地図のように北が上側になっていないので、最初は地図と言われてもピンときません。でも、実際の東西南北に合わせて見てみると、デフォルメはありつつも、ほとんどの主要都市と地形が驚くべき正確さで表現されていることがわかります。どうやら、当時の測量技術はわたしの想像をはるかに超えていたようです。
このモザイク画の素晴らしいところは正確な地図であるというだけではありません。イスラム時代以前のエルサレムを知る貴重な資料になっています。画面中央に描かれた楕円形の都市がかつてアエリア・カピトリーナと呼ばれていたエルサレムです。エルサレムのすぐ右側にイエス・キリスト生誕地とされるベツレヘムが画かれています。アエリア・カピトリーナという地名は、この街をローマ風に作り替えたローマ皇帝ハドリアヌスの姓アエリアとローマにある丘の名前カピトリーナに由来しています。確かに、城壁に囲まれた市街地の中央を突っ切る目抜き通りの両側に列柱が並んでいるという街の造りはいかにもローマ風です。エルサレムを地図の中ほどに据えられたことからも、当時から人々にとってエルサレムの存在が大きかったことがうかがえます。
右上に描かれた死海には大きな船が浮かんでいます。死海の左側からはヨルダン川が流れていて、魚が塩分濃度の高い死海から逃げ出しているように見えます。川の上には逃げるガゼルとそれを追いかけるライオンが描かれています。川下方のナツメヤシの描かれたあたりがエリコの街です。
もともとのモザイク画は15.7 x 5.6 m という巨大なものだったそうですが、何しろ1400年以上も前のものなので、欠損している部分もかなりあり、現存しているのはその一部の 15 x 3 mです。残っている部分だけでも十分すぎるほど大きいので、全体像を把握するのは結構大変。理解の助けとなるのが、教会に展示されたレプリカの解説図でした。
モザイクの街だけあって、教会の中には他にもモザイク画の作品がたくさんありました。このモザイク画に描かれているのはイスラム教徒を罰する様子です。今やヨルダンは押しも押されぬイスラム教国家なので、なんだか皮肉なものですね。
これは、旧約聖書の創世記でエデンの園の中央に植えられたとされている生命の樹です。左側には2頭の鹿、右側にはライオンに食べられる鹿が描かれています。
わたしが観光したのは聖ジョージ教会だけでしたが、マダバには広大な考古学公園と考古学博物館があり、ビザンチン教会の遺構が他にも多数収蔵されていました。さらには、中東でも珍しい教育機関「マダバモザイク学校」があり、職工にモザイクの制作・修復・復元の技法を指導していました。この学校が観光省の後援で運営されていることからも、ヨルダンが国を挙げてモザイク文化の保護に取り組んでいることがうかがえました。
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モーセの約束の地「カナン」を望むネボ山
2015年2月、やってきたのはヨルダンです。
行ってみたいと思っていた国ではありましたが、いつもながらの「安かったから」で来ちゃいました。安いのも当たり前。ヨルダンのお隣の国シリアのアレッポで2名の日本人がISILとみられる過激派武装集団に拘束され、殺害されるという痛ましい事件が起きたばかりだったのです。アメリカ人とイギリス人以外の民間人の人質がISILに殺害されたケースは初めてだったので、世界中に激震が走り、ニュースは毎日その話題で持ち切りでした。もちろん、ISILがドンパチやっているのも、外務省が渡航を禁じているのもヨルダンではなくシリアです。でも、隣の国に行くなんて家族には言いにくい・・・。というわけで、家族や職場にはドバイに行くと言って(もちろんドバイも経由したけど)、恒例のFacebookでの「行ってきます宣言」もしないまま、コソッとやってきたわけです。
ドバイで乗り継いだエミレーツ航空の飛行機はヨルダンの首都アンマンの南にあるクイーンアリア国際空港に到着しました。この空港の名前は前国王フセイン1世の第3王妃だったアリア妃にちなんでつけられたものです。ちなみにアリア妃は1977年の飛行機墜落事故で死去されています。アリア妃はお気の毒で何の罪もありませんが、縁起を気にする日本人にしてみれば、空港の名前としてどうなのよ?と思わないでもありません。
そんなクイーンアリア国際空港で思いもよらぬ理由で足止めにあいました。家族に嘘をついた罰でしょうか。この日のヨルダンは、まさかの大雪。雪なんて滅多に降らないからヨルダン国内に除雪車なるものは1台もないらしく、数十年ぶりの大雪で国内交通は完全麻痺しています。ちょっとの雪で交通が麻痺するのは東京も同じなので文句なんて滅相もありませんが。ちなみに、ヨルダンでは雪が降るとその日を祝日にしてやり過ごすとか。小池都知事よ、是非とも東京都でもこのシステムの採用を検討してほしい!
どうにもこうにも身動きが取れなかったので、アンマン市内で1泊する羽目になりました。雪が止んだのでせめて市内観光でも・・・と思ったのですが、ホテルの目の前の小さな商店に行くのがやっとの状態でした。
翌日、雪に埋もれたアンマンをなんとか脱出し、キングス・ハイウェイを南西に向かって走ります。死海東岸の丘陵地帯を走るキングス・ハイウェイは、モーゼの出エジプト伝承の頃から知らる「王の道」。ところが、ここがメインロードだったのはずっと昔の話で、実際にはハイウェイとは名ばかりの田舎の一本道でした。丘や谷を何度も越えて小さな村々を縫うようにして向かった先は、ヨルダン王国にある最も重要な聖地といっても過言ではないネボ山でした。
ネボ山の入り口に比較的新しい記念碑がありました。カトリックの大聖年にあたる2000年に聖地を巡礼していたかつての教皇ヨハネ・パウロ2世がここを訪れたのを記念して建てられたものです。記念碑に刻まれた「UNUS DEUS PATER OMNIUM SUPER OMNES(お独りの神、万民の父が万民の上にいます)」という文言には宗教の違いを超えてこの中東の地に平和が訪れることを願った元教皇の祈りが込められています。
たかだか標高802mしかないネボ山を目指して世界各国から多くの人々が訪れるのは、ここが預言者モーセの終焉の地「ピスガの山頂(申命記)」とされているからです。モーセという名前を知らなくても、映画「十戒」の中で海を割って道を作った人と言えばピンとくるかと思います。モーセは、かつてファラオに虐げられたヘブライ人を率いて「出エジプト」を果たし、彼らを約束の地カナンへと導きました。その約束の地を眺めながら息を引き取ったとされるのがこの場所です。イスラム教国家にキリスト教の聖地があるなんて違和感がありますが、モーセは、イスラム教の預言者の1人でもあるので、ネボ山はキリスト教徒だけでなくユダヤ教徒やイスラム教徒にとっても聖地なんだそうです。
山頂にある銅の十字架は、イタリアの彫刻家ジョヴァンニ・ファントーニの作品です。この十字架は、キリストが磔になった十字架を表すと同時にモーセが神の命で作って掲げていた「ブロンズの蛇」をも表すと言われています。聖書によると、ブロンズの蛇を見た人々は毒蛇にかまれても死ななかったそうです。十字架の向こうに広がっているのがヨルダン渓谷です。
ネボ山の展望スポットからは、死海やエルサレム、エリコ、ベツレヘムなどを見渡すことが出来ます。眼下に広がる緑豊かな土地は、延々と砂漠を進んできたモーセたちにとって神から与えられた約束の地に相応しい天国みたいなものだったはずです。実はモーセは、かつて犯した罪のために約束の地に足を踏み入れることができませんでした。120歳のモーセは、約束の地をどんな思いで眺め、息を引き取っていったのでしょうか。120歳という年齢に思うところもありますが、ここはスルーしておきましょう。
左側に見えているのが死海です。写真ではうまく伝えられませんが、死海は標高マイナス400mなので、ネボ山の展望台との標高差は1200mになります。右側からヨルダン川が死海に流れ込んでいるのがなんとなくわかります。エルサレムの岩のドームが見える時もあるんだとか。
ヨルダン川西岸に広がっているのが、旧約聖書にも名前の出てくる世界最古の街エリコです。肥沃な三日月地帯にあるこの街は世界で最も早く農耕が始まった土地の一つとされています。ちなみに世界で最も標高の低い街でもあるんだとか。
ネボ山の山頂では、モーセの死を偲んで建てられたという4世紀後半のバシリカ様式の教会と修道院の遺跡が見つかっています。この近代的な造りのモーセ記念教会はその遺構を保護するために建てられたものです。残念ながら、この教会は2007年から修復工事中で、内部に入ることができませんでした(修復工事は2017年に終了)。
教会は修復工事中でしたが、ここの目玉の1つでもある床のモザイク画は、教会の敷地の外に仮小屋を設置して公開されていました。このモザイク画は、531年に製作されたもので、ビザンチン時代の教会跡の床下から発見されました。
ネボ山近くのAbo Bado(アブー・バド)と呼ばれる小さな村のビザンチン修道院の入り口を塞ぐためにドアとして使われていた石です。人の背丈よりも大きいので、いくらドアだとわかっていてもこれで入口を塞がれたら恐怖を感じてしまいそうです。
キリスト教徒でもユダヤ教徒でもないわたしでさえも何か感じるところがあったモーセの終焉の地。信者にとっては流涙ものの聖地であることは間違いありません。40年も約束の地カナンを求めて砂漠を彷徨ったモーセがカナンに入ることが出来なかったことには同情を禁じえません。
次はマダバの街に向かいます。
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