ダビデ王の墓と最後の晩餐の部屋があるシオンの丘
エルサレム旧市街の南西のシオン門の外の一角はシオンの丘と呼ばれています。真っ先に思い浮かぶのは、イスラエル建国の父ヘルツルが起こしたシオニズムですが、シオンとはエルサレムの古い呼び名です。ヘルツルがヨーロッパ中のユダヤ人に「祖先の土地シオン(エルサレム)へ還ろう!」と呼びかけたことで1948年のイスラエル建国が実現しました。かつてユダヤ教の司祭や貴族が多く住んでいたシオンの丘はユダヤ教徒にとって所縁のある土地のはずですが、なぜかこの辺りにあるのはキリスト教会ばかりで、シナゴーグの姿はほとんど見当たりません。それもそのはず、ソロモン王の時代にあったオリジナルのシオンの丘は、エルサレム旧市街の岩のドームが建っている神殿の丘辺りのことを指しているからです。この辺りがオリジナルを差し置いてシオンの丘と呼ばれている理由はわかりません。
狭い路地の間からマリア永眠教会が見えてきました。キリスト教会としてはエルサレムで最も大きいとされる美しい教会です。
カトリック教会最古の修道会であるベネディクト会によって聖母マリアが晩年を過ごしたとされるこの場所にネオロマネスク様式の教会が建てられたのは、紀元前4000年からの歴史をもつエルサレムにあって、比較的最近の1910年のことでした。建設には10年の歳月が費やされたそうです。
背面から見たマリア永眠教会です。どっしりした造りの建物には、正面の2本と合わせて4本の尖塔があることがわかります。
窓から差す光が仄かに照らしてはいるものの、礼拝堂の内部は薄暗く、高い天井も相まってとても厳かな雰囲気に溢れていました。礼拝堂の壁に散りばめられたモザイク画がとても煌びやかで神秘的な輝きを放っています。
正面に設けられた祭壇の天井には、まだ幼いイエスと寄り添う聖母マリアのモザイク画がありました。イエスを見つめるマリアの穏やかな表情が印象的です。
床のモザイクタイルのデザインが、クラシックでステキです。礼拝用の椅子が置かれているので、一部しか見ることができませんが、三位一体や12使徒・12宮が描かれていました。教会に12宮なんてピンと来ませんでしたが、驚くことに黄道十二宮星座は、イエス・キリストによる救いの物語(福音)を表わしているんだそうです。
礼拝堂の壁にある半球状の窪みには聖書に関わる場面が描かれていて、なかなか見ごたえがありました。このモザイク画に描かれているのは有名な東方三博士の来訪ですね。礼拝堂の中にはモザイク画も含めて聖母マリアを描いたものが多数を占めていて、教会の名前を知らずに迷い込んだとしても誰に捧げられた教会かは一目瞭然です。
地下聖堂の中央に桜の木と象牙で作られたマリアの像が横たわっていました。ヨハネの福音書には、イエスは自分が処刑された後の母マリアの世話を弟子のヨハネに託している記述があります。マリアはヨハネに引き取られて10年後に亡くなったそうです。
地下祭壇にはキリストの12使徒のモザイク画がありました。
シオンの丘の見所は、マリア永眠教会だけではありません。教会のすぐ近くに、1階にダビデ王の棺が収められ、2階でキリストが最後の晩餐を行ったとされるすごい建物がありました。実際は建て増しを繰り返しているのでとても大きな建物ですが、市街地の中では、行列がないと通り過ぎてしまいそうなごく普通の建屋に見えました。
その建物の目印となるのが、竪琴を奏でるダビデ像です。ダビデ王は紀元前1000年頃に在位した古代イスラエル王国2代目国王です。エルサレムを中心とした統一国家を作り、息子のソロモン王と共にイスラエルの最盛期を築いた伝説の国王が手にしているのは弓や槍ではなく竪琴であることに違和感を感じましたが、ダビデ王は音楽や詩歌にも秀でていて、当初は楽師として初代王サウルに仕えていたそうです。羊飼いから王に成り上がった武功の持ち主なので、優れた武人であったことは疑いようもありませんが、天は二物も三物も・・・の典型のような人物なのでしょうね。
ダビデ王の墓はユダヤ教徒にとっての聖地なので、観光と関係なく訪問者が多いようです。墓のある部屋には男性用と女性用の入り口が別々に設けられていました。男女が同じ部屋で祈りを捧げることが許されていない正統派のユダヤ教関連施設ならではのスタイルです。わたしも他の参拝者に習って左側の女性用入り口から入室しました。
ダビデ王の紋章である六芒星が掲げられた鉄製のドアをくぐると、左右を壁で仕切られた部屋の奥に大きな棺が安置してありました。部屋の広さは5㎡ほどしかないため大きな棺がさらに大きく感じます。棺は金糸で刺繍された豪華なビロードの布に覆われていました。人々は、棺の前に跪いたり、棺に縋ったり、腰掛けて聖典を紐解いたりしながら、熱心に祈りを捧げています。壁の向こうの男性用の部屋でも同じような光景が繰り広げられていることでしょう。時折涙を流しながら祈る人の姿を見ていると観光客の自分がとても場違いに思えて、なんだか居たたまれない気持ちになってきました。
イエス・キリストが処刑の前に弟子たちと食事をとった最後の晩餐の部屋は、ダビデ王の墓の上の階にありました。イエスはダビデの子孫とされていますので、最後の晩餐が先祖のお墓の上だったなんて何か不思議な力が働いているように思えます。
歴史の瞬間に立ち会うような気持ちでドキドキしながら足を踏み入れた先にあったのは、レオナルド・ダヴィンチの名画の雰囲気とは程遠い小さな空間でした。この部屋は、130年頃から存在した原始キリスト教の集会場を基にした4世紀のビザンチン教会の跡と考えられています。12世紀に十字軍によって再建された名残が十字を成すヴォールト天井に見て取れます。オスマントルコ時代にはモスクとして使用されたので、南側の壁にはイスラム教の聖地メッカの方角を示すミハブがありました。小さな部屋に凝縮された三大宗教の絡み合った歴史に思いを馳せるとなんとも言えない気持ちになります。
ステンドグラスもモスク時代を彷彿とさせるアラビア文字とムスリム模様です。
建物の外観です。イスラエル伝説の王が眠る墓所の上でイエス・キリストが最後の晩餐をとり、十字軍が修復した建物の上にはモスクのミナレットがそびえている・・・まさに、3大宗教の聖地エルサレムを体現したような建物でした。
シオン門は、旧市街の城壁の南側にありました。門のすぐ外にダビデ王の墓があることから預言者ダビデの門とも呼ばれているそうです。石灰岩でできた大きなシオン門には大きな銃を携帯した数人の兵士が常に張り付いていました。
シオン門に残ると無数の生々しい弾痕は、イスラエル独立によって周辺アラブ諸国との間に勃発した1948年の第一次中東戦争の時のものです。イスラエルは、この戦いで独立を勝ち取りながらも、最も肝心な聖地エルサレム旧市街をヨルダンに委ねるという辛酸を舐めました。第3次中東戦争での完全勝利で、1967年には聖地を取り戻すことができましたが、常に兵が張り付いている様子には、この門を死守するという強い思いが表れているようです。
シオン門から旧市街に足を踏み入れます。