時たま、旅人

自称世界遺産ハンターが行く!旅好き会社員の備忘録

イスラエルからペトラ遺跡を目指して再びヨルダンへ

エスが頻繁に祈りのために訪れていたというゲッセマネの園オリーブ山の麓にあります。現在まで受け継がれているオリーブの木は8本だけですが、かつてのこの辺りは一面のオリーブ畑でした。盛んにオリーブオイルの精製が行われていたため、ヘブライ語で油絞りを意味するゲッセマネという名前が付けられたそうです。処刑前の最後の夜をイエスが祈りながら過ごしたとされているゲッセマネの園に建てられたのがこの万国民の教会です。血の汗を流すほどにイエスの祈りが苦悶に満ちたものだったことから苦悶の教会とも呼ばれています。f:id:greenbirdchuro:20190804174008j:plain

 

繊細で美しいビザンツ様式のモザイク画が描かれたファサードが特徴的です。万国民の教会の基礎となる教会が建てられたのは4世紀のことでした。その後も破壊と再建を繰り返し、様々な国からの献金によって1919年に再建されたのが現存する建物です。f:id:greenbirdchuro:20190804174155j:plain

 

万国民の教会に隣接してオリーブ山中腹にはマグダラのマリア教会が建てられています。7つの金色のタマネギを載せたような円屋根がいかにもロシア正教会の建物といった外観です。2人のマリアに捧げるため、ロシア皇帝アレクサンドル3世によってこの教会が創建されたのは1888年でした。1人目がマグダラのマリアです。わたしが初めて彼女の存在を知ったのは、小説ダヴィンチ・コードでした。イエスとの結婚に関する様々な伝説のある女性がいると知ってかなり衝撃を受けたことを覚えています。歴史的根拠は未だに見出されていないので、実際に二人が婚姻関係にあったかどうかはわかりませんが、イエスが十字架に架けられ、埋葬されるのを見守り・・・いずれにしてもイエスの最後に付き従った女性たちの中で一番重要な人物であることは間違いはありません。2人目のマリアは皇帝アレクサンドル3世の母后で、彼女のご遺体はこの教会の地下聖堂に眠っているんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190804175323j:plain

 

 

オリーブ山から神殿の丘のある西側を見ると、その間が谷になっていて切石造りの墓が所せましと並んでいます。この谷は、ケデロンの谷と呼ばれ、ダビデ王の時代から続く古い墓地になっています。無数の墓石は谷一面を覆い、山を飲み込みそうな勢いで斜面にまで迫ってきています。f:id:greenbirdchuro:20190806225429j:plain

 

岩のドームが煌めく神殿の丘の向こうに日が沈もうとしています。エルサレムの辿ってきた歴史は想像するのも難しいくらい苦しいものだったでしょうが、だからこそ束の間かもしれない平和な時代のこんな景色がより貴重なものに感じられます。f:id:greenbirdchuro:20190804174016j:plain

 

夕日の沈む神秘的なエルサレムの街に感動したせいでしょうか・・・ついついこの写真をFacebookにUPしてしまいました。ヨルダンやイスラエルに行くとは言い出しにくいデリケートな時期で、みんなにはドバイに行くと言ってここまでやってきたのに、それをすっかり忘れてしまっていました。

 

数分後、携帯に日本にいる家族から国際電話が入りました。なんでバレたの?と思いましたが、岩のドームや神殿の丘の城壁がバッチリと写ったFacebookの写真を見れば、わたしがいるのがドバイではなくてエルサレムだというのは一目瞭然です。これで、バレないわけがありません。言ってなかったっけ?すごく治安が良いし、人も親切で良いところだよ!などと言い訳にもなっていない苦し紛れの会話を終わらせることで精一杯でした。

 

ちなみに、この時期のわたしは各国の名だたるモスクを訪問する機会に(たまたま)恵まれていました。そんなわたしの様子を見ていた家族はわたしの身の安全よりも、イスラム教への興味が高じてこのままISILにでも参加するんじゃないか・・・ということを心配していたようです。そんなわけないのに。イスラムの宗教美術に惹かれてはいましたが、あくまでも観光目的です。

声を大にして言いたい!わたしは(ほぼ)無神論者です!

誤解は解けましたが、家族にそんな風に(得体が知れない子だと)思われていたのか・・・と若干ショックでした。

 

短い滞在でしたが、最後にまた神殿の丘を眺めてエルサレムとはお別れです。古代から戦争のきっかけと言えば宗教と領土問題に相場が決まっているので、ここに来る前は、それらが常に同居するエルサレムという街は、どんなに殺伐とした雰囲気だろう・・・と思っていました。そこには、わたしの想像をはるかに超える平和な日常がありました。複雑な歴史があるので、揉め事がないはずはないのですが、彼らのそれぞれが折り合いをつけながら生活しています。もちろん、ひとたび争いごとが起きると取り返しがつかない事態になる可能性が大きいことをよく知っているからかもしれませんが。f:id:greenbirdchuro:20190804175056j:plain

 

 

雪で閉鎖されていたペトラまでのハイウェイが開通したらしいというニュースが飛び込んできました。ペトラ遺跡自体はまだクローズしているようですが、一縷の望みをかけて現地に向かってみることにしました。

 

イスラエルからヨルダンへの出入国は逆向きルートに比べると楽勝でした。入国が難しい国こそ出国が楽なのはよくある話です。イスラエルに来ることは二度と無いかもしれないので、記念に出国スタンプを捺して貰いたい気持ちもありましたが、10年パスポートを更新したばかりだったので、これから10年もアラブ諸国に入国できないとなると困ることがあるかもしれないと思って、行きと同じように「ノースタンププリーズ」で通しました。イスラエル出国時に貰ったのはピンクのカード。f:id:greenbirdchuro:20190804175444j:plain


キングフセイン橋を渡って再びヨルダンに入国を果たすと、ペトラに向かってデザート・ハイウェイを南下します。ヨルダンを縦貫するように砂漠の中を走るデザート・ハイウェイは、アンマンからマダバに向かう際に通ったキングス・ハイウェイとは違って舗装もきちんとされている真っ直ぐな道路です。その代わり、車窓から見える景色はほぼ砂漠のみ。単調なドライブが3時間ほど続きました。f:id:greenbirdchuro:20190802224518j:plain

冠雪した山々が見えてきました。f:id:greenbirdchuro:20190802224535j:plain

 

デザート・ハイウェイの終点はヨルダン最南端にあるアカバの街ですが、その手前でハイウェイから降り、ペトラの最寄りの街ワディ・ムーサに到着しました。宿泊したペトラ・セラホテルの前から見た市街地です。坂道の多いワディムーサは少し坂を登れば街全体を見渡すことが出来ます。f:id:greenbirdchuro:20190802224542j:plain

 

雪はすっかり溶けていて、翌日にはペトラ遺跡は入れそうだという嬉しいニュースをホテルの人から聞くことも出来ました。憧れの世界遺産はもうすぐそこです!

 

ダ・ヴィンチ・コード (字幕版)
 

 

 

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