イエスの歩いた最後の道「ヴィア・ドロローサ」
イエスが処刑された当時のエルサレムはローマ帝国の支配下にありました。ユダヤ教徒ではない総督のピラトにとって、イエスのキリスト自称など取るに足らないことでしたが、ユダヤの指導者たちに扇動された群衆を納得させるためにはイエスの処刑を認めざるを得ませんでした。ユダヤ教のあり方を批判し、人々に神の教えを説いたイエスに対する指導者たちの怒りは、イエスを亡き者にしなくては収まらないほど大きいものになっていたのです。処刑の権限を持たない彼らは、権限を持つローマ帝国側にそれ相応の罪状でイエスを引き渡す必要がありました。そのためにイエスにつけられた罪名は「ローマ帝国に対する反逆罪」という最も重いものでした。
十字架を背負ったイエスが最後に歩いた総督ピラトの官邸からゴルゴダにある聖墳墓教会までの道は、イエスやマリアをふくむ多くの人々の深い思いが込められてヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれています。自然発生的に巡礼者が増えてきたことで、14の留(ステーション)が設けられ、伝統的な巡礼路の1つに数えられるようになりました。わたしも全長1kmの悲しみの道を歩いてイエスの苦しみの追体験を試みることにしました。
第1留は、総督ピラトの官邸があった場所とされています。現在は、エル・オマリヤ・スクールというイスラム教の男子校となっていて、中に入ることは出来ません。
第2留には、鞭打ちの教会が建てられていました。この場所で鞭打たれたイエスは、着せられていた衣類を剥ぎ取られ、イバラの冠を被せられてユダヤの王様と嘲笑された上に自らの処刑のための十字架を背負わされたんだそうです。
第3留は、拷問を受けて既に衰弱していたイエスが十字架の重みに耐えかねて、初めて倒れこんだ場所です。現在は、アルメニア使徒教会の聖堂が建てられていました。
第4留は、第3留と同じくアルメニア使徒教会の敷地内にありました。マリアが十字架を背負って歩くイエスを見たとされるこの場所には、現在は苦悩の母マリア教会が建てられています。教会の入り口にはその様子がレリーフとして描かれています。
マリアの悲しみを慮って多くの人々が祈りを捧げに訪れていました。罪人の汚名を着せられて死に向かう我が子の姿を見る母親の心情たるや容易には想像できません。
イエスに代わって十字架を担いだキレネ人シモンを記念した第5留も、第3・4留と同様に多くの人が行き交うアラブ人街のエル・ワド通りにありました。たまたま近くに居合わせたことで弱ったイエスの代わりに十字架を背負うことを命じられたシモンは、現在のリビア東部にあたる港町キレネ出身のユダヤ系の人だったと推測されています。
第6留は、ゴルゴダの丘に向かう長い上り坂の途中にありました。第5留から西に続くこの小路はヴィア・ドロローサの中にあってヴィア・ドロローサ通りと呼ばれています。ヴェロニカという女性がイエスの顔を布で拭ったのがこの場所です。後にイエスの顔が浮かび上がったこの布は「聖顔布」として崇敬を集めるようになりました。ヴェロニカ自身もカトリック教会とギリシャ正教会の聖人の仲間入りを果たしています。
イエスが2度目に倒れた第7留は、ヴィア・ドロローサ通りとハーン・アル・ザイト通りの交差点にありました。イエスがつまずいたのは城壁の外に通じる「裁きの門」の敷居でした。他の死刑囚と同様にイエスの罪状もこの門の上で読み上げられたそうです。
第8留は、イエスがエルサレムの娘たちに向かって「私のために泣くな、自分たち、または自分の子供たちのために泣くがよい」と語った場所とされています。現在はギリシア正教の聖カラランボス教会が建ち、壁には十字架が刻まれていました。
第9留からはゴルゴダの丘の上になります。処刑場からほど近いハーン・アル・ザイト通りの西側の小さな商店の脇の階段を上がった通路の奥のこの場所で、イエスは再び倒れこみました(3度目)。すぐ目の前には聖墳墓教会のドームが見えています。
ようやくヴィア・ドロローサの第10留から第14留がある最終地点の聖墳墓教会へ到着しました。聖墳墓教会は、イエスが十字架刑に処せられたゴルゴダの丘の岩場を取り囲むように建てられていて、処刑場のあった岩場上が教会二階部分、イエスの墓のある岩場下が教会一階部分に相当します。その周囲をキリスト教各派(ギリシヤ正教会、アルメニア使徒教会、シリア正教会、カトリック、コプト正教会)の聖堂が取り囲んでいます。第9留から見えていたのそのうちのコプト正教会の入り口部分でした。
教会の南側にある前庭から入っていくとエチオピア正教会の修道院が見えてきます。聖カラランボス教会があるためイエスが歩いたルートからは少し外れますが、エルサレム観光の中心地点とも言えるこの場所にはヴィア・ドロローサを巡礼しない観光客でも必ず訪れますので、迷うことはありません。
入場待ちをした聖墳墓教会の前の広場です。チラッと見ただけでもこの教会が建て増しされてきたことがわかります。この教会の歴史は、325年にローマ皇帝コンスタンチヌス1世がキリスト処刑地であるゴルゴダに教会建築を命じたことによって始まりました。しかし、ハドリアヌス帝によってローマ風の都市に作り変えられていた当時のエルサレムではゴルゴダの丘がどこかもわからなくなっていました。皇帝の母ヘレナが磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見したことで、この場所がゴルゴタの丘と推定され、建てられたのが聖墳墓教会です。イスラム教徒による破壊で教会そのものが無くなったこともありましたが、この土地を奪還した十字軍によって12世紀に修築されたと言われています。現在の聖墳墓教会のロマネスク様式の外見は、主に十字軍時代のものだそうです。
教会入り口のファサードです。聖墳墓教会の中に共存するキリスト教各派は、自分たちこそ真のキリスト教会だと思っているので必ずしも円満に共存しているわけではないようです。特にこの教会の鍵の管理については大いにもめた経緯があり、聖墳墓教会に執着のない第3者の協力を得ることになりました。慣習として長らく鍵を管理しているのは教会の前で商店を営むイスラム教徒一家なんだそうです。理にかなってはいますが、仲裁に入るのがイスラム教徒というのがなんだか不思議ですね。
聖墳墓教会2階部分の外側に突出した小さな聖堂にある第10留は、十字架に磔られる前のイエスが衣服を剥ぎ取られた場所です。ゴルゴダの丘の岩上にあたる教会の2階部分に向かう人々で身動きが取れないほどごった返していました。
第11留で十字架に磔にされたイエスが息を引き取った第12留には、磔にされたイエスの祭壇がありました。イエスはアラム語で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫んで息を引きとったそうです。衰弱しきったイエスの最期の叫びとこれまでの経緯を思うとあまりの悲痛さにキリスト教徒でないわたしでも胸が締め付けられました。
十字架から降ろされたイエスの遺体を受け止めたと言われているマリアの悲しみの像が飾られた第13留の祭壇は第11留と第12留の間にありました。
かつて、第13留は教会1階の塗油の石とされてきました。息絶えたイエスが横たえられて埋葬処置を施されたとされる板状の石の前では多くの人が長く足を止めていました。
ヴィア・ドロローサの終点となる第14留は、イエスが葬られ、かつ復活を果たしたゴルゴダの丘の中腹にあった岩の洞窟跡を囲った墓所です。聖墳墓教会が建てられた際に完成したロトンダ(円形建築物)の中央に、2〜3人しか入れないような完全なるサンクチュアリ(聖域)として存在していました。この場所もエルサレムの街の他の部分と同じように破壊や再建を繰り返してきましたが、2016年に200年ぶりの修復に着手したそうです。1年の予定だったそうなので、すでに公開されていると思われます。
埋葬から3日後にイエスは復活したとされているので、この場所は第14留(イエスの墓)であると同時に第15留(イエスの復活の場所)であると考える人もいるそうです。それ故にアナスタシス(復活聖堂)とも呼ばれています。当然ながら墓の中にイエスの御遺体はありません。ロトンダの天井から差し込む神秘的な光を見ているとイエス復活は必然のようにも思えてきます。
数多くの部屋や聖堂がひしめく聖墳墓教会の中で最も広いのは、アナスタシスの向かいにあるギリシャ正教のマルチュリオン(殉教聖堂)です。
天井にはイエス・キリストのモザイク画がありました。
マルチュリオンにはギリシア正教会にとっての世界の中心がありました。世界の中心という言葉はわたしの好物の1つ!その響に心を揺さぶられましたが、この世界の中心なるものは、毎日の掃除の度にちょっとずつ移動すると知って軽い失望を覚えたのは言うまでもありません。
キリスト教各宗派が共存する聖墳墓教会は、競い合って飾り立てられていることもあり、正直なところゴチャゴチャした感じが否めません。この内輪もめみたいな状況をイエス・キリストはどう眺めているのでしょうか。各宗派のこの聖地に対する熱心な思いは十分に伝わってきましたけど。