時たま、旅人

自称世界遺産ハンターが行く!旅好き会社員の備忘録

嘆きの壁にみる悲しきユダヤの歴史

シオン門をくぐった旧市街の南西部はアルメニア人地区です。アルメニア料理のお店やお土産物屋さんが並んではいますが、人通りも少なくとても静か。アルメニア人地区がキリスト教地区・イスラム地区・ユダヤ人地区と並ぶエルサレムの4地区に数えられることが意外にも思えますが、アルメニアは世界で最も早くキリスト教を国教とし、エルサレムに早くから教会や住居を建設して確固たる地位を築いてきました。他の宗派とは一線を画した独自性のおかげでイスラム支配時代でさえその地位を保ってきたんだそうです。

 

長く迫害を受けてきた少数派のアルメニア人は、城壁に囲まれたエルサレム旧市街の中にさらに壁を設けてアルメニア人地区を築いています。つまり城壁の町の中に城壁の町を作っているのです。アルメニア地区の中心とも言えるヤコブ大聖堂はこの壁の奥にありました。f:id:greenbirdchuro:20190729213215j:plain

 

ヤコブ大聖堂は、この場所で殉教したイエスの12使徒の1人である聖ヤコブを記念して11世紀に建てられたものです。エルサレム屈指の美しい宗教建築と言われていますが、内部に入れるのは15時からたった30分だけ。どうしても時間をやりくりできず、今回は外観だけの観光になってしまいました。f:id:greenbirdchuro:20190729213223j:plain


大聖堂の入り口には、イエスを真ん中にして両脇にヤコブヨハネが描かれています。多くの聖人の中にマリアの姿はありません。永眠教会で推しメンだった聖母マリアは、アルメニア正教会ではそれほど崇拝されていないんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190729213619j:plainf:id:greenbirdchuro:20190730225438j:plain

 

アルメニア人地区からユダヤ人地区に入っていくと、絵に描いたような正統派のユダヤ教徒を見かけるようになります。正統派のユダヤ教徒を目にするのはこれが初めて。これまで出会ったユダヤ教徒はせいぜい頭にキッパを載せているくらいでしたが、聖地で暮らす正統派だけあって高さのある黒いハット黒のロングコートを身につけ、髪と一緒にカールした長いもみあげという典型的な姿です。制服のように年中同じ格好だそうです。その姿からも彼らの勤勉さや生真面目さが伝わってきて、ほぼ無宗教でフラフラと生きているわたしのような適当な人間は恐れ慄いてしまいます。記念写真でもお願いしたいところですが、遠くから後ろ姿を隠し撮りするだけにしておきました。f:id:greenbirdchuro:20190729214839j:plain

 

ローマ植民地時代のカルド(列柱通り・メインストリート)が、ダマスカス門とシオン門を結ぶように旧市街を貫いています。現在の道路と比べるとだいぶ掘り下げられた場所にコリント様式のシンプルな列柱が並んでいます。この列柱は大通りの両側に並んでいたものですが、道路の片側半分だけしか発掘されていないので、1列だけが見えている状態です。メインストリートだけあってカルドの道幅はかなり広かったようです。f:id:greenbirdchuro:20190729214533j:plain

 

ローマ軍によって破壊されたエルサレムを南北にカルドが貫くローマ風の都市に作り変えたのはハドリアヌスでした。135年にローマから運んできた大理石でカルドの北半分が作られ、その後のビザンチン時代にユスティニアヌス帝が南側を拡張して完成したそうです。長い歴史の中で完全に破壊され地下に埋もれていたカルドがヘブライ大学のアヴィガド教授によって発掘されたのは、1967年の第三次中東戦争の後のことでした。f:id:greenbirdchuro:20190729214540j:plain

 

カルドの壁には、マダバ地図のレプリカ掲示されていました。現物のマダバ地図は巨大なので、エルサレムだけを切り抜いてあります。確かにマダバの聖ジョージ教会の床で数日前に見たモザイク画の地図のコピーです。6世紀に作られたマダバ地図にもカルドがはっきりと描かれています。ちなみに、カルドとほぼ並行して神殿の丘に向かう通りが第二カルドで、こちらの遺跡の断片も各所で見つかっているそうです。f:id:greenbirdchuro:20190729214549j:plain

 

かつてのカルドの様子が描かれた絵がありました。もちろん、想像の域を出ないものだとは思いますが、列柱の両側には商店が立ち並んで、かなりの賑わいを見せています。f:id:greenbirdchuro:20190729214558j:plain

 

現在のカルドもショッピング街としてかつてのように賑わっています。f:id:greenbirdchuro:20190729214613j:plain

 

旧市街を東側に進み、嘆きの壁の西側の丘までやってきました。目の前の広場の向こうには立ちはだかる高い壁が嘆きの壁で、そのすぐ向こうにイスラム教の聖地である岩のドームが見えています。壁に向かって祈るユダヤ人の姿が嘆き悲しんでいるように見えることからそう呼ばれるようになったそうですが、旧市街の東側にそびえるこの壁には西の壁という本来の名前があります。この壁がかつての神殿の西側にあったことから付けられた名前だそうです。f:id:greenbirdchuro:20190730230638j:plain

 

この場所の歴史は、紀元前1000年頃にソロモン王(ダビデ王の息子)が自然の高台を利用して第1神殿を建てた時に始まりました。紀元前586年に新バビロニアネブカドネザルによって第1神殿は破壊され、捕らえられたユダヤの人々はバビロンに強制移住させられてしまいました。帰還した人々によって70年後に再建された第2神殿ヘロデ王の時代にはユダヤ黄金時代を象徴する見事な神殿となりました。しかし、紀元70年にローマ軍によって再び破壊され、部分的に残ったのが現在の西の壁です。ローマ人は、神殿の丘にゼウスを祀り、ユダヤ人が街に入ることを禁じて、彼らを徹底的に弾圧しました。ミラノ勅令で彼らが1年に1日だけ嘆きの壁で祈ることを許されるようになったの200年の時を経た4世紀のことでした。1948年の第1次中東戦争イスラエルが独立を勝ち取った後もこの場所はヨルダンの管理下に置かれて、1967年の第3次中東戦に完全勝利して念願のエルサレムに帰還を果たした時には、かつての神殿の丘はイスラム教の聖地に変わり果てていました。破壊をまぬがれたわずか60mの西の壁だけが唯一の祈祷所です。そこに集うユダヤ人たちは泣いているように見えるのではなくて、本当に心で泣いているのです。f:id:greenbirdchuro:20190730230653j:plain

 

イスラム教の管理下にある壁の向こうに、イスラム教の聖地岩のドームがひときわ輝きを放っています。このドームは3大宗教にとって重要とされる聖なる岩を祀って7世紀末に作られた記念堂であって、礼拝所を持つモスクではありません。かつては木造だった直径20.4m・高さ36mのドームは、1960年の修復以降は、鉄骨の上に金メッキのアルミ板を被せたものになっています。有色大理石で幾何学模様の装飾が施された外壁の中でも特に美しいのはドーム直下の部分です。スレイマン1世がトルコから動員したタイル職人らの手による装飾タイルは、青を基調とした緻密で鮮やかなデザインで、もはや外壁というより芸術作品の域です。f:id:greenbirdchuro:20190730231032j:plain

 

岩のドームの北側にアル・アクサー・モスクの銀色のドーム屋根とミナレットが見えています。現在の姿になったのは1066年ですが、ワリード1世によって715年に建てられて以降、何度も再建されたので初期の原形を留めていません。岩のドームとともにイスラム教の聖地となっています。f:id:greenbirdchuro:20190730230701j:plain

 

嘆きの壁に通じる通路では入念なセキュリティチェックが行われます。ここがどういう場所か少しでも知っていれば納得ですが、それでも金属探知機を通り、手荷物をX線検査にかけるという空港並みの厳戒態勢には少し気持ちが怯んでしまいます。壁のそばまで行くにはシナゴーグと同様に男性はキッパと呼ばれる小さな帽子を被らなければなりません。頭頂部を覆うことで神への敬意を表すという意味があるようです。観光客用にナイロン製のキッパを貸し出していました。f:id:greenbirdchuro:20190730230720j:plain

 

この地方で採れる白い石灰岩エルサレム・ストーン」でできた壁の上部にはヒソプと言われる香り草が生え、左手にはウィルソン・アーチと呼ばれるトンネル状の祈祷所が口を開けています。壁の下から7段目までは第2神殿時代のもので、その上の4段が7世紀のウマイヤ朝時代に付け足されたもの、さらにその上に14段に積まれた小さな石はオスマン帝国時代のものです。最上部の3段は1967年にイスラム教の宗教指導者によって積まれました。現在の壁の高さは地上21mもありますが、地下には第2神殿時代の石がまだ17段も埋まっているんだそうです。あらゆる時代の石が積み重なった壁には、ユダヤの人々に次々と襲いかかった苦難の歴史が表れています。f:id:greenbirdchuro:20190730231934j:plain


シナゴーグダビデ王の墓と同様に嘆きの壁も男女のエリアがパーティションで区切られていました。右側の女性用スペースは、男性の半分くらいしかない上に、女性の方が多いので壁の前はまさに芋を洗うような混雑ぶりでした。なんとか壁の前に立つことが出来たので、周りに倣って壁に手をついて祈ってみました。ユダヤ教徒にこれ以上の苦難が降りかかりませんように・・・。ふだんのわたしを知る人には嘘くさく聞こえるかもしれませんが、各地に離散させられたユダヤ人が近代でも辛い目にあった歴史(ホロコーストの悲劇)を知っていたら、壁に手をおいて涙を流す本物のユダヤ教徒のためにそう願わずにはいられません。f:id:greenbirdchuro:20190730231341j:plain


嘆きの壁に積まれた石の隙間には、願い事が書かれた小さな紙がギッシリと詰まっていました。まるで日本の神社でおみくじを結ぶ木の枝を探すかのようにどうにかこうにか隙間を探して、わたしも願い事を書いた紙を差し込んでみました。f:id:greenbirdchuro:20190730230747j:plain

 

近くにいた関西からの団体ツアーのおば様方の話し声が聞こえてきました。「願い事を5つ書いた」とか「神様にボーイフレンドをお願いした」とか。神様も大変だなぁと思わず笑ってしまいましたが、その時にエルサレムに来て初めて笑ったことに気がつきました。

 

ペンブックス19 ユダヤとは何か。聖地エルサレムへ (Pen BOOKS)

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