時たま、旅人

自称世界遺産ハンターが行く!旅好き会社員の備忘録

ナスカの地上絵

クスコ到着から数日が経過し、標高3000~4000mの高地にもすっかり順応できていましたが、プーノを最後にアンデス山脈とはお別れです。プーノ近郊の街フリアカの空港から国内線でリマに移動することにしました。久々に味わう平地の空気は濃く感じます。f:id:greenbirdchuro:20190827004227j:plain

 

ペルーに到着してから、リマには数時間しか滞在していませんが、今回も市内観光はせずに次の目的地に向かいます。
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バスで目指すのは、ペールの南海岸地区にある人口3万人の街ナスカです。言うまでもありませんが、その目的は1994年に世界遺産に登録された「ナスカとフマナ平原の地上絵」を見るため(2016年に「ナスカとパルパの地上絵」に名称変更されています)。f:id:greenbirdchuro:20190828150653j:plain


人口3万人ほどの小さな町ナスカにやってくる観光客はもれなく地上絵を見に来ているといっても過言ではありません。バスから降りると、遊覧飛行やツアーの勧誘の客引きが一斉に声を掛けてきます。すでに予約を済ませていたわたしは、華麗にスルーしてホテルに向かいました。チェックインもそこそこに荷物を預かって貰って観光開始です。f:id:greenbirdchuro:20190827004054j:plainf:id:greenbirdchuro:20190827004058j:plain

 

地上絵が描かれている広大な大平原(パンパ・インヘニオ)は、南北をナスカ川とインヘニオ川に囲まれたアンデス山脈の麓に位置しています。パンパの中央に建つミラドール(展望台)まではパンアメリカン・ハイウェイを北に向かって一直線。車窓から見える風景が、これまで周遊してきた雨季のペルーとは全く違っています。どこまでも乾いた大地が広がっていました。f:id:greenbirdchuro:20190827003809j:plain

 

遠くの方で、乾いた砂を巻き上げながら立ち昇る竜巻が見えていました。f:id:greenbirdchuro:20190827002020j:plain

 

30分ほどでハイウェイ沿いにあるミラドールに到着しました。てっきり近くに駐車場でもあるのかと思っていたら、車が停車したのはハイウェイの路肩です。この看板がなければ砂と石ころしか見当たらない平原のどこに地上絵があるのかは全く見当がつきません。f:id:greenbirdchuro:20190827002029j:plain

 

南北アメリカを貫くパンアメリカン・ハイウェイの最北端はアラスカのフェアバンクス、最南端はアルゼンチンのウシュアイアにあるティエラ・デル・フエゴ国立公園内にある未舗装道路です。地平線まで続くハイウェイの大陸らしい景色と、路肩に車を止めて、ハイウェイのど真ん中に立つという日本ではありえない状況に興奮してしまいましたが、この数年後にハイウェイの両端を訪れることになるとは想像だにしていませんでした。f:id:greenbirdchuro:20190827232023j:plain

 

 

パン・アメリカ沿いに立つこのレトロな雰囲気のミラドールは、ドイツ出身のマリア・ライヒェという女性が実際に地上絵の観察に使用していたものです。1939年にナスカの地上絵を発見したのはアメリカの考古学者ポール・コソックでしたが、その後の研究の中心は彼の助手マリアでした。ナチスの台頭するドイツに嫌気がさした数学者のマリアが、ドイツ領事の子供達の家庭教師としてペルーに渡ったのは29歳の時でした。家庭教師やリマでの教員生活を経たマリアがポールの助手となってから、この世紀の謎解きと運命の恋に落ちるのにそれほどの時間はかかりませんでした。セスナやヘリが手配できる時代ではありませんでしたから、この高さ20mの鉄骨製の無骨なミラドールが地上絵を傷つけずに観察する最善の方法だったのでしょう。マリアは、その研究と保全活動に生涯を捧げ、文字通り1998年に亡くなるまで地上絵と添い遂げたんだそうです。地上絵はマリアの人生そのものだったんですね。なんだか羨ましい気がします。f:id:greenbirdchuro:20190826235707j:image

 

ミラドールの上から見ることのできる地上絵は「木」「手」です。あまりに巨大なので上まで登っても全体を見渡すことができません。木と言われれば木のような気もしますが、やっぱり空からでないと全体像を把握するのは難しいようです。
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ナスカ砂の王国地上絵の謎を追ったマリア・ライヘの生涯 (文春文庫)

ナスカ砂の王国地上絵の謎を追ったマリア・ライヘの生涯 (文春文庫)

 

 

というわけで、翌朝早くにナスカの南側にあるナスカ空港にやって来ました。ナスカ空港は地上絵を遊覧するためのセスナ専用の小さな空港です。カウンターでまず最初に行われるのは体重測定です。体重の偏りでセスナがバランスを崩さないように座席を割り振る必要があるからです。日本人は小柄なので問題になることが少ないとのことでしたが、心の準備なしでの体重測定には逃げ出したくなります。心の準備をしたところで体重が増減するわけでもないのに。幸いなことに体重はスタッフの人にしか見えませんので、乗り込んだセスナの座席の配置を見て、自分の体重がスタッフにどう評価されたかを察するしかありません。f:id:greenbirdchuro:20190827003800j:plain

 

案内されたのは、10人ほどが乗れる小型〜中型のセスナでした。セスナと聞くと、子供の時に聴いていたプリプリの「世界で一番熱い夏」を思い出します。キンプリではなくプリプリという辺りで年齢がバレてしまいそうですが。手放しでセスナに興奮していた若い頃と違って、オンボロだったら怖いなぁと心配するところも大人になった証拠でしょうか。幸いにもキレイな機体で一安心です。
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セスナの中は広いとは言えませんが、全員が窓側の席という嬉しい構造になっていました。自分が通路側で見知らぬ人が窓側だと気を遣いますもんね。f:id:greenbirdchuro:20190827003147j:plain

 

小型機ならではの騒音を響かせながらセスナはナスカの上空へと舞い上がりました。f:id:greenbirdchuro:20190827003804j:plainf:id:greenbirdchuro:20190826235721j:image

 

一番最初に見えてきたのはクジラです。90度に折れ曲がった太い直線がクジラと重なるようにひかれています。地上から見るとそれほど大きくは見えませんが、クジラの長さが63mあるので、直線自体の太さや長さも相当なものだとわかります。f:id:greenbirdchuro:20190827002556j:plain

 

大地という巨大なキャンパスに描かれた地上絵のうち大きなものは300m近くにも及びます。線だけでも300本も描かれているそうです。硬い大地に線を引くだけでも大変だと思いまが、直線や幾何学模様を描けるということは高度な測量技術を持っていた証拠ですよね。それにしても、誰が何の目的でどのように描いたのかは未だに謎のまま。宗教儀礼説やマリアの推した天文学説、さらにわたしの推す宇宙人説と色々な仮説がありますが、わかっていることは、パンパを覆う黒い石や砂をどけて白っぽい地面を露出させることで図柄や線が描かれているということです。f:id:greenbirdchuro:20190827002600j:plain

 

宇宙人(32m)はすぐに見つけることができました。ガイド本によっては、「宇宙飛行士」とか「ふくろう人間」と書いてあります。ふくろう人間ってなんだよって感じです。幾何学模様でもないし、子供のお絵かきみたいなタッチですね。f:id:greenbirdchuro:20190827002603j:plain

 

サル(110m)の長い尻尾がクルクルと巻かれた姿には愛嬌があります。子供のお絵かきレベルを一気に超えてきました。f:id:greenbirdchuro:20190827002607j:plain

 

イヌという説明でしたがキツネというのが有力だそうです。もしかしたらオオカミかもしれませんけど。f:id:greenbirdchuro:20190827003423j:plain


この大きな鳥はハチドリ(96m)を描いたものです。アメリカ南西部からアルゼンチン北部にかけて生息する日本人には耳慣れない鳥です。地上絵でこんなに大きく描かれているのに、実物はスズメよりもずっと小さな鳥です。小さなものになると蛾と間違われるくらいのサイズなんだとか。こんなに大きく描かれているからには、ハチドリが何か特別な存在の鳥だったからかもしれません。f:id:greenbirdchuro:20190827002611j:plain

 

この写真はマチュ・ピチュ遺跡の中で撮った実際のハチドリです。ハチドリの何がそんなに特別だと思われたのかはわかりませんが、調べたところによると、ハチドリは世界最小鳥類でありながら過酷な環境に適応できる強靭な身体を持っているんだとか。f:id:greenbirdchuro:20190828155757j:plain

 

クモ(46m)はかなり複雑な構図をしています。大昔に描かれた地上絵が現在までこんなにハッキリと残っているのは、マリア達の保全活動が奏功したのはもちろんのこと年間を通してほとんど雨の降らないナスカ平原の気候の影響が大きいでしょう。f:id:greenbirdchuro:20190827002613j:plain

 

コンドル(136m)はガイド本には海鳥と書いてあります。「コンドルは飛んでいく」という民謡もありますし、アンデス山脈の鳥と言えばコンドルのイメージが強いですが、海岸近くに位置するナスカなら海鳥もありえるかもしれません。f:id:greenbirdchuro:20190827002618j:plain

 

セスナのパイロットは日本語でグルグルと言ってましたが、要するに何かわからないんだと思います。地上絵の幾何学模様はナスカで発見された大昔の土器の紋様にそっくりなんだそうです。となると、儀式的な要素が強くなってしまうので、わたしの宇宙人説からは遠ざかってしまいます・・・。f:id:greenbirdchuro:20190827002620j:plain

 

サギ(280m)は最も大きな地上絵の1つです。f:id:greenbirdchuro:20190827002625j:plain

 

トンボ(200m)と言われればトンボ?複数の地上絵を見て感じたのは、少なくても同じ人物によって描かれたものではなさそうだということです。というのも、明らかに絵心に差があるからです。もしかしたら、描いているうちに上達していったのかもしれませんが、それにしても子供のお絵かきレベルの緩いものから建築士の設計図レベルの精密さをもつものまで様々です。見れば見るほど、知れば知るほど謎が深まります。f:id:greenbirdchuro:20190827002631j:plain

 

地上絵があるエリアのど真ん中をパンアメリカン・ハイウェイが貫いています。ところどころで地上絵を分断していました。このハイウェイを造った時は地上絵のことを知らなかったのかな・・・と思ったのですが、そうでもないようです。
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展望台からは断片しか見えていなかったの全景です。片方の手には指が4本しかないことに気が付きますが、この4本指の手は神の手だとされています。というのも、ナスカでは、神様が人の姿を借りて現れる時には必ず何かしらの障害をもって現れるという言い伝えがあるから。障害児が生まれると「神様の化身」としてお祝いする地域もあるんだそうです。地上絵の解明と保護に生涯を捧げることを決めた頃の若きマリアは、壊疽のために指を1本失っています。ひょとしたら、そのことも彼女が地上絵に縁を感じて情熱を注ぐきっかけになったのかもしれません。 f:id:greenbirdchuro:20190827002634j:plain

 

(70m)を海草と記載している本もありました。幹に芯が描かれていることや根を張っている様子から「木」に1票を投じたいと思います。f:id:greenbirdchuro:20190827002640j:plain


パイロットは左右の窓の両側から地上絵が見えるように均等に旋回してくれるので、窓側なら座席に当たり外れはありません。日本人の観光客がいると日本語の解説もしてくれます。「グルグル」とか「うちゅうじん」とかの拙い単語ですが、地上絵探しに熱中していたらそれくらいの情報量が丁度良い感じでした。何よりもオモテナシの姿勢には感謝です。セスナでの遊覧はもやがかかることの少ない午前中がお勧めです。

駆け足のペルー旅行はこれで終了です。ここには書ききれないトラブルがたくさんありましたが、そのおかげで南米旅行に向けてスペイン語を勉強するきっかけになったのでかえって良かったかもしれません。

 

世界遺産 ナスカの地上絵 完全ガイド (GEM STONE 45)

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だれがかいたナスカの地上絵 (まんが新・世界ふしぎ物語 2)

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チチカカ湖で暮らすウル族の生活

マチュ・ピチュ遺跡を観光したので、ペルーに来た目的は8割がた達成したのですが、せっかくなのでチチカカ湖に足を延ばしてみることにしました。チチカカ湖はペルー南部とボリビア西部にまたがる大きな淡水湖ですが、見るべき価値のある珍しい湖とされています。何がスゴイかというと標高3800mにあるということ。さらに、世界中で20カ所ほどしか確認されていない古代湖のひとつなんだとか。

 

クスコからチチカカ湖の側にあるプーノという街までは1時間に1本ほどの割合でバスが出ていましたが、インカ・エクスプレスの運行している観光バスを利用することにしました。クスコを出たバスは1時間ほどでオロペサという聞いたことない名前の小さな村に立ち寄りました。f:id:greenbirdchuro:20190824092754j:plain

 

見るからに何にもなさそうなオロペサ村ですが、この村はペルーのパンの都と呼ばれています。バスの車窓からも道路沿いの窯でパンを焼いている様子が見れました。バスから降りると村の中には美味しそうなパンの香りが漂っています。
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オロペサ村の名物がチュタパンです。直径30~50cmくらいはありそうな座布団みたいに平べったいパンです。ほんのりとシナモンの香りがして、素朴な甘みがクセになりそう。実は、チチカカ湖ではこのチュタパンが重要な役割をはたすことになります。f:id:greenbirdchuro:20190825214053j:plain

 

トイレ休憩で立ち寄ったお土産物屋さんには人懐っこいビクーニャがいました。リャマとアルパカとグアナコとビクーニャ・・・ますますわけがわかりません。4つとも近縁であることは確かですが、属分類については色んな学説があるんだとか。とりわけビクーニャとチリ・アルゼンチンにいるグアナコはそっくりです。首の下には長い毛が生えているのがビクーニャなんだとか。
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これがアルパカです。手足と首を長くした変わり種の羊といった見た目ですが、羊よりもずっと愛嬌のある顔立ちをしています。アルパカが昔から飼育されてきたのは、羊と同じでその長い毛を利用するためでした。このお土産物屋さんで、アルパカの赤ちゃんの毛でできたマフラーを1つ購入しました。アルパカの赤ちゃんの毛でできた製品は、大人のアルパカのそれよりもさらに柔らかくて、ふわふわしていました。f:id:greenbirdchuro:20190824092106j:plain

 

クスコとプーノの境界までやってきました。標高は富士山よりはるかに高い4335m。クスコにしばらく滞在していて高地順応ができていたようで、4000mを超えていても息苦しさを感じません。理論的には理解していましたが、スポーツ選手でもないわたしがたった数日でこの空気の薄さに慣れてしまうんだから、陸上選手の高地トレーニングにはバカにできない効果があるんだな・・・と実感しました。f:id:greenbirdchuro:20190824092129j:plain

 

オロペサから2時間半で今回の旅行で最も標高の高いラヤ峠に到着です。4338m!f:id:greenbirdchuro:20190824092132j:plain

 

あいにくの曇りですが、晴れていたら、青空と緑の大地と冠雪したアンデス山脈が見れて、かなりの絶景だったはず!f:id:greenbirdchuro:20190824092136j:plain

 

何にもないラヤ峠ですが、観光客目当ての露店が並んでいて、アルパカの毛で作られたマフラーやストールや民芸品等々が売られていました。それにしても、インディヘナの皆さんは商根逞しい・・・。ラヤ峠どころか周辺にも住居らしきものを見かけませんが、こんなところまでどこからやってきてるんでしょうか。他に見るものがあるわけでもないので、バスから降りた人はみんな土産物屋に立ち寄りますが、買い物をしている人はあまり見かけませんでした。商売になるんだろうか・・・。f:id:greenbirdchuro:20190824092141j:plainf:id:greenbirdchuro:20190824092146j:plain

 

ラヤ峠から3時間ほどで標高3850mに位置するチチカカ湖観光のゲートシティプーノが見えてきました。これから訪れるチチカカ湖周辺はインカの時代以前から文明の栄えた地域でしたが、プーノ自体は、スペイン人の征服より後の1668年に造られた街で、現在は約22万人が暮らしています。市街地には立ち寄らずに桟橋に向かいます。f:id:greenbirdchuro:20190824093324j:plain

 

チチカカ湖の西岸にある桟橋につきました。対岸にはプーノの市街地が見えています。アヒルのボートが停泊している風景は、その辺の公園の池と大差なく見えて、湖の広さも標高の高さも伝わりませんが、チチカカ湖は、汽船が航行する湖としては世界最高所となる標高3810mに位置しています。ペルーとボリビアの国境にまたがる湖の面積は約8500㎢。数字を聞いてもピンときませんが琵琶湖の約12倍の規模です。富士山の山頂よりも高い場所にこれだけの規模の湖があるというのは、日本人には想像できないくらいのスケールの大きさですが、さらにスゴイのは、一般的な湖が数千年から数万年の寿命であるのに対し、チチカカ湖は10万年以上の歴史をもつ古代湖であるということです。何から何までスケールが大きい!f:id:greenbirdchuro:20190824093536j:plainf:id:greenbirdchuro:20190824093541j:plain

 

ここからモーターボートに乗ってチチカカ湖に浮かぶ島を訪れます。湖には大小40以上もの島がありますが、ペルー側の島の有名どころと言えば、ウロス島・アマンタニ島・タキーレ島。その中でも観光客が最も多く訪れるというウロス島を目指して、ボートはチチカカ湖に漕ぎ出していきました。f:id:greenbirdchuro:20190824093546j:plain

 

青空の下、ボートは青い湖を進んでいきます。標高が高いせいでしょうか、空がとても近く感じます。所々にトトラという葦のような水生植物が生えています。f:id:greenbirdchuro:20190824093551j:plain

 

湖の中には家畜が飼われている島もありました。絶対に逃げられないから安心ですね。f:id:greenbirdchuro:20190824093556j:plain

 

30分ほどでウロス島が見えてきました。実は、ウロス島は普通の島とはだいぶ違った特徴があります。なんと、ウロス島とはチチカカ湖に散在する数十の島の総称で、それらの島々はトトラと呼ばれる葦を積み重ねてできた人工の浮島なんだそうです。島全体を見渡してみると、島自体はもちろんのこと家も舟もすべてトトラで作られているのがわかります。f:id:greenbirdchuro:20190824093601j:plain

 

島に暮らすウル族という先住民の人々が出迎えてくれました。船みたいに浮遊しているのかと思っていたら、トトラでできた島の地面は思ったより硬くて浮遊感はありません。それでも、植物特有の柔らかな感触がなんとも不思議な感じです。f:id:greenbirdchuro:20190824093605j:plain

 

出迎えてくれたウル族の人々が身に着けている伝統的な民族衣装が、かなりカラフルで青空と青い湖の中でとても映えています。ごくシンプルな衣装の男性に対し、女性はフワッと広がった原色のスカートを身に着けています。どうやらデザインや色に年齢は関係なさそう。小さめの帽子の下の髪型もみんなお揃いの三つ編みです。f:id:greenbirdchuro:20190824094025j:plain

 

集会所になっている島の中心部の広場で、ウロス島の成り立ちについての説明がありました。ウロス島の作り方は、わたしが想像していたよりもずっと簡単で、トトラの根をまとめて縄で縛って作った土台の上にトトラの葉を切って3mほど積むだけなんだとか。わたしの訪れたウロス島はせいぜい2~3家族が住んでいるような小さな規模でしたが、チチカカ湖の中に何十とあるウロス島の中には数百人が暮らす大きなものもあり、そこには学校や教会なんかもあるそうです。f:id:greenbirdchuro:20190824094136j:plain

 

人々の食料となるのは、チチカカ湖に生息する魚や水鳥、トトラで育てた野菜など。驚いたのは、火種にもなる上に食料にもなるというトトラの優れもの加減です。f:id:greenbirdchuro:20190824093813j:plain

 

チチカカ湖で捕れた魚は重要なタンパク源。f:id:greenbirdchuro:20190824094100j:plain

 

調理したものを見せてもらいました。肉じゃがの魚版「魚じゃが」といった感じでしょうか。ちなみに薄めの塩味でした。f:id:greenbirdchuro:20190824094103j:plain

 

シンプルな生活をしているように見えるウル族ですが、子供たちの「お菓子くれ」のおねだり攻撃は半端ありません。世界中から観光客が来るので、どこかのタイミングで甘いお菓子の存在を知ってしまったんでしょうが、それが深刻な問題になっているんだとか。確かに、虫歯になっても生活習慣病になっても島には歯医者さんもお医者さんもいません。ツアー会社からは、飴やお菓子の代わりに、パンやフルーツを渡すように推奨されていました。それなら島のみんなで食べられるからです。そこで、活躍するのがオロペサ村で買ったチュタパンというわけです。でもお菓子を期待して一生懸命に接待していた子供たちにとってはショックが大きいようで、お菓子を求めて激しく泣き叫んだ上に、お菓子の代わりにお金をくれとねだられる始末・・・、なんだかやるせない気持ちになります。

 

トトラで作られたバルサという船でチチカカ湖遊覧体験できます。(もちろん有料ですけどね)。トトラだけでよくもこんな頑丈な船が出来るもんだなと感心しきりです。f:id:greenbirdchuro:20190824093806j:plain

 

チチカカ湖観光を終えて、プーノに宿泊です。

 

地球絶景紀行 アンデスの巨大湖チチカカ/ペルー [Blu-ray]

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チチカカ湖めざして (グレートジャーニー 人類5万キロの旅)

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マチュ・ピチュ遺跡 後編(謎だらけの失われた都市)

1911年にアメリカの探検家ハイラム・ビンガムによって発見されたことで400年にも及ぶ長い眠りから目覚めたマチュ・ピチュ遺跡はマチュピチュ山とワイナピチュ山の間に挟まれるように存在しています。

 

ケチュア語で年老いた峰という意味のマチュ・ピチュに対して、ワイナピチュが意味するのは若い峰。遺跡の向こう(西側)に天を衝くようにそびえている切り立った標高2720mの山がワイナピチュです。とても登れそうには見えませんが、インカの時代には見張り台の役目を果たしていました。今でも当時の登山道を利用して登ることができます。ちなみに、わたしは入場制限にかかってしまって登ることができませんでした。(残念なようなホッとしたような・・・。)f:id:greenbirdchuro:20190822235311j:plain

 

高さ2.2mの石の門は市街地入口、つまりマチュ・ピチュの正門だった場所です。大きな石をしっかりと組み上げて造られた門の上部には縄を通すためと思しき輪が取り付けられています。門の左右に造られた窪み(左は人で隠れてしまっていますが)にも縄がかけられるような細工がしてありました。これらを利用して扉を固定していたことがうかがえます。f:id:greenbirdchuro:20190822235158j:plain

 

入口の門をくぐると、右側にカリャンカと呼ばれる2つの部屋があります。マチュ・ピチュを訪れた人がまず休息をとるために造られた部屋だと考えられています。ホテルのロビーみたいなものでしょうか。
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遺跡内には石切り場も残っていました。こんな大きな岩からひとつひとつの石を切り出して形を整える作業がどんなに大変なものだったか想像がつきませんが、別の場所から石を運ぶ必要がなかった点においては、他のインカの遺跡よりも恵まれていたのかもしれません。f:id:greenbirdchuro:20190823194051j:plain


石切り場からワイナピチュ側に進むと、一段高い場所に広場があり、それを3方から囲むように3つの石の建物が並んでいます。広場に面して建つ主神殿の壁には、コリカンチャの神殿と同じように17個の飾り棚が設けられていました。4.5mもの大きさの石を土台に用いた主神殿の石組みは、マチュ・ピチュの他の部分と比べても精巧で、1つ1つの石が均一な四角形をしています。このことから、この神殿がいかに神聖で重要な場所だったかがうかがえます。f:id:greenbirdchuro:20190822235911j:plain

 

広場の東側にある建物が3つの窓の神殿です。3つ並んだ大きな台形の窓が向いているのは夏至の日の出の方角なんだとか。文字さえ持たなかったインカの人々が天文学に長けていたのはなんだか不思議な気がします。伝説ではこの3つの窓から8人の兄弟姉妹が生まれ、その1人がインカ帝国の初代皇帝マンコ・カパックだったとか。イザナギとイザナミが鉾で泥をかき混ぜて日本が出来た!に似た匂いがプンプンします。f:id:greenbirdchuro:20190822235527j:plain

 

ケチュア語で太陽を繋ぎ留める石という意味を持つインティワタナは、石の四隅が東西南北を示していることから日時計であったと考えられています。実は、このインティワナは有名なパワースポット。石の周りでは、神秘の力なるものにあやかりたい人々が、まるで何かの宗教のように一斉に手をかざしています。みんなが口々に「温かい!」 とか「感じる!」とか言うもんだから、わたしも触ってみましたよ。言われてみれば温かいような・・・。こうして、人は壺を買うようになるんだろうな・・・。f:id:greenbirdchuro:20190822235914j:plain

 

限られた斜面を最大限に利用して、効率的に太陽光や水を得るためであったとは言え、きっちりと積まれた石垣の段々畑が上から下まで40段も連なる光景は圧巻です。インカ人の段々畑を造る能力はもはや芸術の域で、日本人も叶わないかもしれません。ここで育てられたジャガイモやトウモロコシ、コカなどの食物は、通年食べらえるように乾燥させてコルカで保管されたそうです。右手には居住区が並んでいます。f:id:greenbirdchuro:20190823000209j:plain

 

居住区の石の積み方でそこに住む人の身分がわかるのが興味深いです。貴族の住居は大きな石を隙間なく積み上げているのに対して、身分の低い者の住居は小さく不揃いの石でできています。段々畑に近いこの辺りの住居の石積みは庶民のものですね。f:id:greenbirdchuro:20190823000212j:plain

 

他のインカの遺跡が直線や曲線で描ける滑らかで規則的なフォルムをしているのに対し、自然の石の上に人工的に石を組み上げて造られたコンドルの神殿はダイナミックで不思議な形をしています。見ようによっては翼を広げたコンドルに見えなくもありません。翼を象った石の部分の半地下になったスペースでミイラが見つかったことから、牢獄であったとも考えられていますが、本当のところはわかっていません。f:id:greenbirdchuro:20190823000350j:plain

 

コンドルの神殿の前に設置されたコンドルの頭部とくちばしを象った大きな平石は、太陽神への生贄を捧げた場所だと考えられています。インカの時代のコンドルは地上と空を結ぶ神のひとつとされていたので、コンドルの神殿(コンドルの平石)が地上と天界を結ぶ神聖な場所として儀式に使われていたことは十分にありえます。インカ帝国の最後の皇帝トゥパク・アルマは、死後にコンドルに生まれ変わったという伝説も残っているそうなので、コンドルが特別な鳥であったことは疑いようもありません。f:id:greenbirdchuro:20190823000511j:plain

ラテン名曲集 コンドルは飛んで行く

ラテン名曲集 コンドルは飛んで行く

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 高さ5mほどのカーブした石壁に囲まれた建物は太陽の神殿です。インカの高い石組み技術がいかんなく発揮された滑らかな曲線はクスコのコリカンチャの土台とそっくりですが、どうやらこの曲線をもった建物はインカ帝国の時代に各地に建てらえた太陽神殿に共通するもののようです。2つある窓のうち、東の窓は冬至の朝、南の窓は夏至の朝に太陽が正確に差し込むといわれています。f:id:greenbirdchuro:20190823000940j:plain

 

正面から見ると、太陽の神殿が自然のままの巨大な岩石を基礎として建っていることがわかります。神殿下部の石室は、基礎となっている巨大な岩石によって斜めに遮られたような三角形をしていて、石組みの中には複数の窪みがしつらえてありました。発見者のハイラム・ビンガムはこの石室を王家の墓だと考え、陵墓と名付けましたが、実際にミイラが見つかったわけではないので、墓であったかどうかも定かではありません。これだけ立派な造りなので、お墓だとしたら王家のものの可能性は高いと思いますが。f:id:greenbirdchuro:20190823000639j:plain

 

マチュ・ピチュ遺跡の中にはアルパカリャマが放し飼いにされていて、すっかり景色に溶け込んでいます。これは、リャマだと思っていますが、正直なところ自信がありません。アルゼンチンやチリで見るグアナコもそっくりですが、つい最近まで3つとも同じ動物で呼び方が違うだけだと思っていたわたしには見分けなんかつくはずもありません。大人しく草を食べているだけで、全くこちらを気にしていなさそうですが、これだけ毎日たくさんの観光客が来るんだからいちいち構っていられないというところでしょうか。f:id:greenbirdchuro:20190823230632j:plain

 

わたしが訪れた頃も入場制限がありましたが、待てばなんとか入れるくらいではありました。現在はかなり厳しくなっていて、予約なしでの入場はまず無理と思った方が良いようです。そんなに厳しく入場制限しているというのに、遺跡の近くに国際空港を造ることが決まって現地は紛糾しているとか。飛行機や列車を乗り継いで苦労して辿り着くからこその感動があると思うので、飛行場が出来たらもう行かないかな、わたしは。f:id:greenbirdchuro:20190823233913j:plain

 

川の濁流を見てこの時期が雨季だったことに気がついたわたしでしたが(知っていたところでペルー行きを諦めるはずもないけど)、マチュ・ピチュからの帰り列車は土砂崩れによる線路の復旧に時間がかかり、1時間半で着くはずのオリャンタイタンボ駅まで7時間もかかりました。インカ・レイルの中で缶詰めになったのも今となっては良い思い出(?)です。日本ではあり得ないことに途中停車した列車から線路上に開放される時間もありました。このままだと暴動でも起こすと思われたのかもしれません。f:id:greenbirdchuro:20190823232413j:plain

 

オリャンタイタンボ駅に着いた時にはもう夜更け、クスコ到着に至っては午前様でした。酸素不足と睡眠不足で脳細胞が死んでいく・・・最後まで持ちこたえるかしら。f:id:greenbirdchuro:20190823232416j:plain

 

マチュピチュ (写真でわかる謎への旅)

マチュピチュ (写真でわかる謎への旅)

 
マチュピチュ探検記 天空都市の謎を解く

マチュピチュ探検記 天空都市の謎を解く

 

 

マチュ・ピチュ遺跡 前編(天空都市を目指して)

クスコでユルユル観光をしているうちに(標高3400mではユルユルせざるを得ませんが)なんとなく高所順応が出来てきたようなので、いよいよ今回の旅のハイライトでもあるマチュ・ピチュを目指すことにしました。チケットはあらかじめアルマス広場近くのオフィスで購入しておきました。チケット購入にはパスポートが必要ですが、入手したチケットにもきちんと氏名、年齢、性別、パスポート番号といった個人情報が記載されています。チケットを手に入れるためにかなりの時間を要しましたが、1人1人にこのチケットを発行しているのなら仕方ありません。次に行く時はネットで買います。f:id:greenbirdchuro:20190822234908j:plain

 

マチュ・ピチュ遺跡の公式チケット販売サイトはこちら↓

http://www.machupicchu.gob.pe/

 

クスコからマチュピチュまでは数通りの行き方がありますが、わたしが選んだのはコレクティーボ+観光列車でした。弾丸旅行者としては、最も楽で最も早く行ける(ただし最もコストがかかる)観光列車の利用は避けられませんが、乗り合いバスのコレクティーボを利用して途中駅のオリャンタイタンボ駅から観光列車に乗車すればクスコからのマチュ・ピチュ村までの直通列車と同じくらいの時間でより安く着くことができます。クスコから2時間ほどの場所にあるオリャンタイタンボ駅まではコレクティーボで2時間ほどです。ちなみにオリャンタイタンボ駅の周辺には山と川しかないので早く着いても時間は潰せません。f:id:greenbirdchuro:20190822232041j:plain

 

観光列車にはペルーレイル(Perurail)、インカ・レイル(Inda Rail)、アンデンレイルウェイ(Andean Rail Way)の3社があります。アンデンレイルウェイの列車は見れませんでしたが、こちらの青い車体の列車が最も歴史の古いペルーレイルです。ペルーレイルは老舗なのでクスコのボロイ駅から乗車できます。f:id:greenbirdchuro:20190822232215j:plain

 

そして、わたしがオリャンタイタンボ駅で乗車したインカ・レイルf:id:greenbirdchuro:20190822232755j:plain

 

オリャンタイタンボ駅を出た列車は、アマゾン川の源流の1つウルバンバ川に沿ってどんどん標高を下げていきます。車窓から見える景色は、延々と続く濁流の川と森林のみ。わたしが目指すインカ帝国の廃墟マチュ・ピチュはウルバンバ川の中流沿岸にあるウルバンバ渓谷の尾根にあります。霧の中のマチュ・ピチュも空中都市という雰囲気でさぞかし神秘的でしょうが、できれば晴れていてほしい・・・。f:id:greenbirdchuro:20190822233026j:plainf:id:greenbirdchuro:20190822233032j:plain

 

オリャンタイタンボ駅からは約1時間35分ほどでマチュピチュ駅に到着しました。少し青空が見えてきて安心しました。駅の周囲の標高は2000mほどです。クスコ到着から続いていた胸の圧迫感がすっかり消え、明らかに空気が濃いのがわかります。f:id:greenbirdchuro:20190822230725j:plainf:id:greenbirdchuro:20190822233912j:plain

 

遺跡に最も近い集落であるマチュ・ピチュ村には3000人ほどが暮らしています。村の主な産業は観光業ですが、遺跡以外にはほとんど見るものがありません。駅周辺には民芸品市場がありますが、観光は一瞬で終了します。ちなみに、村の正式名称はアグアス・カリエンテス(お湯)です。村で温泉が湧いているのが由来ですが、あえてマチュピチュ村を名乗るは、香川県がうどん県を名乗るのと同じで、温泉より遺跡の方が集客できるという政治的判断ゆえでしょうか。f:id:greenbirdchuro:20190822234015j:plain
 

マチュ・ピチュ村から遺跡までは歩いて行くことも出来ますが、標高差400mの登坂を2時間は歩くことになりますので、片道30分ほどで行けるシャトルバスを利用することにしました。バスは頻繁に出ているので、それほど待つこともなく乗車できましたが、遺跡の入り口までのハイラム・ビンガン・ロードはヘアピンカーブを13回も折り返す車酔い必発のジグザグ登坂です。決して安くはないバス代ですが、歩かなくて正解でした。マチュピチュ遺跡のエントランスにはかなり人だかりが出来ています。f:id:greenbirdchuro:20190822234117j:plain

 

遺跡はまだ見えてきませんが、渓谷に霧がかかる景色は既に絶景です。



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空中都市とか失われた都市とも呼ばれるマチュ・ピチュは、15世紀半ばのインカ帝国第9代皇帝パチャクティの時代に造られたと考えられています。他のインカの都市がスペイン人にことごとく破壊されたにも関わらず、麓からその姿を確認できない標高2400mの密林の中にあったマチュ・ピチュは幸いにも難を逃れることができました。主を失って草に埋もれた廃墟となったマチュ・ピチュがハイラム・ビンガムによって発見されたのは1911年のことでした。残念ながら、アンデス文明は文字を持たなかったため、この遺跡が造られた目的や首都クスコとの関係ははまだ解明されていません。

 

順路に沿って歩いて行くと、コルカと呼ばれる草葺屋根の建物が出てきます。コルカは畑で採れた作物を保存するための貯蔵庫でした。屋根はイチュと呼ばれる稲科の植物を使って復元されています。f:id:greenbirdchuro:20190823162545j:plain

 

さらに森の中のジグザグ道を進むと視界が開け、夢にまで見たマチュ・ピチュの風景が広がっていました。映像では何度も見たことがありますが、霧がうっすらと(ほどよく)かかる遺跡の姿は「空中都市」の名にふさわしい神秘的な姿です。あちこちからも多言語の歓声が聞こえてきましたが、声にならない声しか出てきません。f:id:greenbirdchuro:20190822234524j:plain

 

丘の上にはコルカと同じようにイチュで屋根葺きされた見張り小屋が見えています。見張り小屋は、インカ時代の住人にとっての監視場所であると同時に遠くの人々と交信するための場所だったようです。
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マチュ・ピチュ遺跡の最南端の最も高い場所に位置する見張り小屋の側は、遺跡の全景を含めた360度の景色を見渡せる絶好のビューポイントになっています。 ふだんの行いが良いせいでしょうか(?)、どんどんと霧が晴れてきました。ここに来てやっと、自分の足でマチュ・ピチュ遺跡に立ち、自分の目で直にこの景色を見ているんだという実感が湧いてきました。誰もが感じる疑問だとは思いますが、こんな山の中に何のためにこれだけの規模の都市を築いたのでしょうか。その疑問が未だに解明されていないことも、どれだけ考えたってわかるはずないことも知っているのに、それでもループのように頭に浮かんできます。f:id:greenbirdchuro:20190822234854j:plain

 

クスコで見たコリカンチャや市街地の石組みと同様に、マチュピチュ遺跡の中にも見事な石組みがきれいに残されていますが、遠くから眺めていると、建物によって石組みが均一ではなく、その精巧さにもランクがあることがわかります。通路や壁や貯蔵庫のように価値がそれほど高くない建造物では、石の大きさもバラバラで、石組みも粗雑に見えます。どうやら石組みが精巧なものほど重要な建築物のようで、高官の住居や宮殿がそれに相当するようです。f:id:greenbirdchuro:20190822234848j:plain

 

見張り小屋の左右には段々畑が広がっていますが、特に遺跡の西側に広がる段々畑の傾斜は凄まじいとしか言いようがありません。こちら側の段々畑が造られたのは、作物を作るためではなくて、土砂崩れを防ぐためだったと知って安心しました。ここでの農作業は命がけすぎますもん。f:id:greenbirdchuro:20190823173250j:plain

マチュ・ピチュ遺跡の観光はまだまだ続きます。

 

世界遺産 マチュピチュ完全ガイド (地球の歩き方 GEM STONE 25)

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マチュピチュ探検記 天空都市の謎を解く

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コリカンチャ(太陽の神殿)にみるインカの技術

アルマス広場からソル通りを下っていくと、ント・ドミンゴ教会が見えてきました。教会の建物は、この地を侵略したスペイン人が1780年に建てたものですが、その土台はかつてここにあったインカ帝国のコリカンチャ(太陽の神殿)のものです。太陽神信仰を重要視した9代目インカ帝国皇帝パチャクテクは、各地に太陽神殿を建造しました。1438年に初代皇帝が建てた神殿を再建してそれらの神殿の中心と位置付けました。ケチュア語で「金で囲われた場所」を意味するコリカンチャは、その名の通り、外塀に金の帯がついた豪華な神殿だったそうです。f:id:greenbirdchuro:20190820234935j:plain

 

スペインからやってきた来た征服者たちは、黄金に溢れた神殿から略奪の限りを尽くし、神殿の建物を破壊してしまいました。黒い石が隙間なく積まれた土台部分にコリカンチャの名残を見ることができます。スペイン人が造ったサント・ドミンゴ教会もそれなりに立派な建物ではありますが、石造技術の精密さはインカの建築物に遠く及びません。隙間なく積まれたインカの石組みとは対照的にコロニアル建築部分の石と石の継ぎ目には接着材が用いられているのが肉眼でも確認できます。f:id:greenbirdchuro:20190820234939j:plain

 

かつては神殿があった場所なので少し高台になっています。青々とした芝生が美しいサグラド庭園の向こうには市街地を望むことができます。f:id:greenbirdchuro:20190820235847j:plain

 

市街地のすぐ背部には丘陵地帯が迫っています。f:id:greenbirdchuro:20190820235849j:plain

 

遠くに見える山の斜面にはVIVA EL PERU (ペルー万歳)の文字が刻まれていました。f:id:greenbirdchuro:20190821161131j:plain

 

こちらはペルーの国章です。勝利と栄光を象徴するオークの枝の冠の下に、月桂樹と椰子のリースに囲まれた盾が配置されています。盾の中に描かれているのは、国を代表する動物ビクーニャ(左上)・国木キナ(右上)・豊穣の角から溢れだす金貨(下)です。f:id:greenbirdchuro:20190821161137j:plain

 

教会の周囲にはペルーらしい植物が咲き乱れていました。2500~4000mの高地に育つ常緑樹のカントゥータに見られる赤や黄色の可憐な花はペルーの国花でもあります。
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入場料を払って中に入ると、ヨーロッパの教会によくありそうなアーチ回廊に囲まれた中庭にでました。神殿は、中庭をとり囲むように配置された「月・太陽・稲妻・虹・星などの部屋」から成っています。中庭中央にあるコリカンチャの時代の井戸はひとつの石をくり抜いて造られています。これもかつては黄金で覆われていたそうです。f:id:greenbirdchuro:20190820235149j:plainf:id:greenbirdchuro:20190820235155j:plain

 

回廊の周囲に復元された石組みは、まるで機械で切りそろえた石を接着剤を使って組み合わせたかのようで「剃刀の刃も紙も入らない」という表現がぴったりの精巧さでした。現代技術をもってしても難しそうな作業を、車輪も鉄も持たなかったというインカの人々が手作業だけで成し遂げたという事実には素直に驚くしかありません。f:id:greenbirdchuro:20190821163133j:plain


スペイン人によって破壊された石組みの跡を見ると、ただ整然と積み重ねられているように見える石壁の見えない部分には凸凹の細工が施されていることがわかります。釘を使わないで木組みする日本の宮大工さん達の伝統工法みたいに、石をパズルのように組み合わせることでより強固な造りを実現していたようです。f:id:greenbirdchuro:20190821163330j:plain

 

中庭の南東側には4つの小神殿が並んでいます。神殿の壁が地面に対して垂直ではなく、斜めに10度傾いているのがわかります。この壁を内側に傾かせる構造上の工夫と凹凸を利用した石組みがこの神殿の耐震強度を増しているんだとか。実際に、1950年のクスコ大地震で教会の上物が無残に崩れ落ちてしまった時でも土台の石組みだけはびくともしなかったというのは有名な話。その後の数回の地震も難なく耐え抜いています。f:id:greenbirdchuro:20190821161442j:plain

 

石組みでできた部屋の壁に設けられた台形の凹みには金銀でできた神像が置かれていたと考えられています。スペイン人はこの神殿を彩っていた黄金を根こそぎ本国に持ち帰ってしまいました。あまりに大量の金が流入したせいでヨーロッパはインフレになったという記録が残されているほどです。現存する石組みだけでも十分に美しいのに、豊富な金で装飾されたコリカンチャはどんなにか眩い神殿だったことでしょう。願わくば、歴史をさかのぼって、在りし日のコリカンチャの姿を見てみたいものです。f:id:greenbirdchuro:20190821163128j:plain


それぞれの部屋に設けられた飾り窓にもインカの石造りの技術の精巧さを確認することができます。床に置かれた石の台の上に乗って虹の神殿にある台形の飾り窓を覗いてみると、隣にある犠牲の部屋、さらにその隣にある雷の神殿の窓と全く同じ高さに同じ形で窓が造られていることがわかります。f:id:greenbirdchuro:20190820235047j:plain

 

石組みの壁にぽっかりと開いたこの空間は、ガラス板で覆われて保護されてることからも、重要な場所だったことがわかります。それもそのはず、この場所は王の玉座だったと考えられているそうです。f:id:greenbirdchuro:20190820235945j:plain

 

こちらが、インカの石組みで最も小さな石。1cm角ほどの大きさなので、注意して探さなければ通り過ぎてしまいそうです。作業の途中で欠けた部分を補修したものだと思われますが、わたしなら破損に気が付いても無視してしまいそうな細かさです。ついつい触りたくなる人間の習性を責めることはできませんが、その部分だけ黒光りしていて、このままだと差し歯みたいに欠けてしまうのは時間の問題だと思われたのでしょう。プラスチックで保護されてお触り禁止になっていました。甘んじて受け入れましたが、ちょっと残念!f:id:greenbirdchuro:20190821164242j:plain

 

 回廊にはたくさんの宗教画が飾られていました。宗教画を近くで撮るのは禁止みたいですが、回廊を撮って映り込む分はOKとのこと。ちょっと微妙なアングルですかね。f:id:greenbirdchuro:20190820235432j:plain

 

展示されていた模型でコリカンチャの概要をうかがい知ることができます。壁はあれほどまでの精巧な石組みなのに、屋根がわらぶき。なんというギャップでしょうか。f:id:greenbirdchuro:20190821184414j:plain

 

スペイン植民地時代にはわずかに残ったコリカンチャの内部の壁に漆喰画が重ね描きされたそうです。わずかに残存していた壁画の断片が2005年に修復されています。
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二重の扉をくぐって神殿の大きな部屋に入っていくと2m四方はありそうな大きな金板が飾られていました。残念ながら、略奪したスペイン人のスケッチを基にして作られたレプリカですが、この金板にはインカの世界観(コンドルが守る天上の世界・ピューマが守る地上の世界・蛇が守る地下の世界)が描かれているとか。うーん、かわいいオブジェにしか見えない・・・。でも、かわいいだけで神殿に飾られるはずはありませんから、かなり価値があるものだということはおぼろげながらも理解できます。侵略者にとって重要だったの表面の金装飾だけだったみたいで、現物が残っていないのが残念です。f:id:greenbirdchuro:20190821000107j:plain

 

金板の説明図です。今でこそ何が描かれたものかは理解できますが、当時はまだスペイン語が出来なかったのでちんぷんかんぷんでした。でも金板(のレプリカ)の一番上の太陽と月の間に描かれているキャラ(すっかり自分の中ではキャラクター化している)のかわいさには一目で心を射抜かれてしまいました。しばらく携帯の待ち受け画面にしていたのは言うまでもありません。f:id:greenbirdchuro:20190821185350j:plain

 

わたしが独断と偏見で決めた世界職人ランキングで、インカの時代の石工職人さんは3位にランクインしました。ちなみに1位は身内びいきで日本の職人さん、2位はイスラム装飾の職人さんとなっています。

 

興亡の世界史 インカとスペイン 帝国の交錯 (講談社学術文庫)

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インカ帝国探検記 - ある文化の滅亡の歴史 (中公文庫)

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インカ帝国の首都クスコ

2012年春、長く勤めていた勤務先の退職を決心したわたしは、溜まりに溜まった有休を消化するために旅行に出かけることにしました。時間があった学生時代はお金がなくて(度胸もガッツも足りなくて)、社会人になってからは時間がなくて、なかなか長期の旅行をする機会がありませんでした。特に往復を含めた移動に時間を取られる南米大陸への旅は避けてきたとも言えます。人生で初めて時間と資金の両方を手にしたわたしが選んだ悩んだ末に決めた行先はペルーでした。ペルーと聞くだけで、マチュピチュナスカという世界不思議発見に出てきそうな憧れの地名が浮かんできます。スズメの涙ほどの退職金は一瞬にしてなくなりましたが、思い出はプライスレスって言うじゃないか!と自分に言い聞かせながらアメリカン航空で成田空港を飛び立ちました。

 

当時のわたしは、南米上陸はおろかロサンゼルスより南に下ることも初めて。当然ながら南米資本の航空会社を利用することも初めてでした。ロサンゼルスから乗り継いだラン航空(現在のラタム航空)のスペイン語メインの機内アナウンスに異国情緒を感じたのもつかの間、一切の日本語が消えた機内エンターテインメントを前にこの長いフライトをどうやり過ごすか体も心もやり場をなくした頃、「急病人です!どなたかお医者様いらっしゃいませんか!?」という機内アナウンスが聞こえてきました。もちろん、スペイン語でしたが、言葉なんかわからなくてもその切羽詰まった雰囲気は察することはできました。数回のアナウンスの後にお医者さんらしいヒスパニック系の女性が何度か通路を行き来するのが見えました。お医者さんがいてよかった・・・と眠ろうとしたところに再度のアナウンスです。「急病人が出たので、ロサンゼルスに引き返します。」うそ〜ん、結構な時間飛んだのに!?かくして、わたしの乗った飛行機は数時間前に飛び立ったロサンゼルスに引き返して行ったのです。ロサンゼルスに到着した飛行機から先ほどの急病人が車椅子で運ばれていき、再びロサンゼルスを旅立った飛行機がペルーのリマのホルヘ・チャベス空港に到着したのは予定時間を8時間ほど過ぎた翌日の明け方でした。

 

予約していたホテルに向かいましたが、数時間後にはまた国内線に乗らないといけないため、眠るほどの時間は残されていませんでした。とりあえずシャワーを浴びて、ベッドでウダウダしていたらもう出発時刻。ついさっきまでいた空港に逆戻りしました。次便への振替も頭をよぎりましたが、天候に左右されやすい次の目的地へのフライトは、よく遅延・欠航する上に、有視界飛行なので早い時間の便しかないとのこと。初っ端からバテ気味ですが、マチュピチュのお膝元として知られるクスコに向けて予定どおりに出発です。f:id:greenbirdchuro:20190820233059j:plain


1時間30分ほどでクスコの市街地から4kmほど南に位置するアレハンドロ・ベラスコ・アステテ国際空港に到着しました。建物は近代的ですが、国内第2の都市にある国際空港の割には小規模です。標高3400mの空気の薄さが睡眠不足の疲れた体にこたえます。ここからは高山病との闘いになるので、迷わずタクシーでの楽ちん移動を選択。f:id:greenbirdchuro:20190820233105j:plainf:id:greenbirdchuro:20190820233218j:plain

 

ケチュア語で「へそ」を意味するクスコは、首都リマから南東に約570km離れたアンデス山脈に位置するペルー第2の都市です。マチュピチュのお膝元として知られるクスコがインカ帝国の首都として機能し始めのは、15世紀前半の9代皇帝パチャクティの時代でした。見事な石造りの神殿や宮殿が築かれたクスコは文字通りインカ帝国のへそ、世界の中心でした。しかし、16世紀にインカ帝国を滅ぼしたスペインからの侵略者達は、徹底的にクスコの街を破壊し、インカ時代の神殿や宮殿をカトリックの教会や修道院などに変えていってしまいました。クスコには優れた文明を築いたインカ帝国時代とスペイン征服後の建造物が多く残されており、2つの文化が混在した独特の町並みが1983年にユネスコの世界遺産に登録されています。

 

クスコの市街地の中心にあるアルマス広場から観光をスタートしました。広場の四方は歴史ある建築物に囲まれています。レストランや土産物屋、旅行代理店が軒を並べる赤屋根・白壁のバルコニー付きの2階建ての建物がいかにもコロニアル風といった雰囲気で、多くの観光客でにぎわっていました。広場中央にある噴水の中心には、インカ帝国第9代皇帝パチャクティの像が据えられていました。f:id:greenbirdchuro:20190821000921j:plain

 

第9代皇帝パチャクティは、政治・軍事に優れた賢王として知られています。彼が1471年に死亡した時点で、インカ帝国の勢力範囲は、南は現チリから北は現エクアドルまで、更に現在の国で言えばペルー、ボリビア、北アルゼンチンの大部分をも含んでいました。南米の文明的な範囲のほぼ全体を占めていると言えます。そのことからも彼は「アンデス山脈のナポレオン」とも呼ばれているとか。かつての首都の中心で自らが築いた帝国の変わり果てた姿を彼はどう思っているのでしょうか。f:id:greenbirdchuro:20190821000724j:plain

 

アルマス広場を囲む建物の中でひときわ目をひくのが2つのキリスト教会です。

 

まずは、広場の北東側に面して建つクスコ大聖堂(カテドラル)。1533年にクスコを征服したスペイン人達は、インカで信仰されていた宗教を徹底的に排除するために、ビラコチャ神殿があったこの場所にカトリック教会を建設することを決めました。1559年から始まったカテドラルの建設は、1654年の完成まで100年近くの歳月を要しています。長引く教会建築にありがちなことですが、当時のスペインで流行っていたゴシック・ルネッサンス様式を基本としながらも、アルマス広場に面したファサードにはバロック様式の影響が見られます。労働力となった多くのインカ人の影響と思われるインカの宗教的シンボルがチラ見えするのは、彼らの侵略者に対する反抗心の表れかもしれませんが、究極の折衷様式と言ったところでしょうか。右側にチラ見えしているのが、クスコ最古の教会であるエル・トリウンフォ教会(1536年築)、左側がヘスス・マリア教会です。

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ポトシ銀山の銀を300トンも使ったという主祭壇や長年のろうそくのすすで黒くなった「黒いキリスト像」、植民地時代の多数の美術・工芸品 etc…と見どころの多いカテドラルのようですが、残念ながら入場することができませんでした。今となっては、ご馳走としてインカコーンや天竺ネズミ(クイ)が描かれたマルコス・サパタ作の「最後の晩餐」を見てこなかったことが心残りです。最後の晩餐の部屋ってエルサレムで見たんですけど、そんなメニューはなかったはず。f:id:greenbirdchuro:20190821000707j:plain

 

広場の南東側に建つのは、第11代皇帝ワイナ・カパックのアマルカンチャ宮殿跡に建てられたラ・コンパニーア・デ・ヘヘス教会です。精巧なバロック様式の正面ファサードの外観はカテドラルにも劣らない立派な佇まいです。最初の教会が建てられたのは、カテドラルよりもだいぶ早い1571年でしたが、1650年の地震の後に再建されています。その頃には既に完成していたカテドラルより立派な建物を建てちゃ駄目というクスコの大司教の反対をイエズス会が無視したということのようです。f:id:greenbirdchuro:20190821000551j:plainf:id:greenbirdchuro:20190821000139j:plain

 

へヘス教会の横にあるアトゥンルミヨク通りを進みます。こんな細い通りに名前が付いていることにも交通量の多さ(ほとんど観光客)にもビックリしますが、通りの両側にある精巧な石垣がインカ帝国時代のものだとわかると納得がいきます。f:id:greenbirdchuro:20190821000711j:plain


なかでもインカの高い技術力を実感するのが、一見何の変哲もないように見えるこの「12角の石」。よく見ると、周囲の他の石に合わせて絶妙な形に切り出されていて、複雑な形をしていることが分かります。紙一枚も通さないといわれるほど隙間なく精密に造られた石垣に、インカの人々の技術力の高さを見ることができます。f:id:greenbirdchuro:20190821000720j:plain

 

次は、インカ帝国の中心の中心である太陽神殿(コリカンチャ)に向かいます。

 

興亡の世界史 インカとスペイン 帝国の交錯 (講談社学術文庫)

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インカ帝国:太陽と黄金の民族 (「知の再発見」双書)

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インカとスペイン 帝国の交錯 (興亡の世界史)

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アンダルシアグルメ

ふんだんな山の幸と海の幸を活かしたスペイン料理は、イタリア・モロッコ・ギリシア料理と共に地中海料理として2010年に世界無形文化遺産に登録されています。とはいえ、かつて別々の国だった地方が集合して国家を成しているスペインは、国土が広大なだけでなく、気候も文化も人々の気質も驚くほど様々。各地の特産品を活かした様々な調理法の料理が存在していて、スペイン料理と一括りにするのはちょっと乱暴にも思えます。幸い、今回の旅行先はスペインの中でも地中海に面したアンダルシア地方、まさに世界遺産に登録された地中海料理を楽しめるエリアです。

 

スペインの食文化を語る上で外せないのがバル。今では日本でもお馴染みのバルは、レストランとバーとカフェが一緒になったようなカジュアルな飲食店でスペインやイタリアなどの南ヨーロッパが発祥の地です。お手軽価格で美味しいお酒や料理を楽しめるだけでなく、地域の人々と繋がるコミュニケーションの場所になっています。

 

さっそく、バルやレストランでいただいた飲み物やお料理をご紹介します。


スペインの代表的なビールサン・ミゲル・エスペシアル(San Miguel Especial)。サン・ミゲルと言えば同名のビールにがフィリピンにもありますが、資本関係は一切ないとか。適度な甘みがあり、まろやかでしっかりした味わいでした。f:id:greenbirdchuro:20190819192400j:image

 

グラナダの地ビールであることは一目瞭然のアルハンブラ(Alhambra)。もちろん、アルハンブラ宮殿に由来しています。ラベルのロゴにはアルハンブラ宮殿内のライオンの中庭にある噴水のライオン像が描かれています。少し苦味があるものの飲み口のすっきりしたライトビールでした。
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滞在中に一番多く飲んだのがサングリアです。サングリアは、スペインやポルトガルでよく飲まれているいわゆるフレーバーワイン。赤ワインにスライスした果物や甘味料を入れ、ブランデーやシナモンなどのスパイスで風味付けしたものです。もともと日本で売られている既製品のサングリアを自己流にアレンジして飲むほど好きなのですが、あちこちで飲んだのには理由があります。サングリアに使用される果物や甘味料、スパイスには、何をどれだけ使うという決まりが特にないため、それぞれのお店のオリジナルの味を楽しめるから。甘いお酒が苦手でなければ、お気に入りのサングリアを探してみるのも楽しいでしょう。f:id:greenbirdchuro:20190819192417j:image

 

バル巡りは意外と苦戦しました。というのも、これまで経験したバルは、お酒と一緒に指差しで食べたいタパスやピンチョスを頼むというスタイルでしたが・・・ここでは、お酒を頼むとお通し的タパスが自動でついてくるんです。日本の居酒屋と違って無料なのは嬉しいですが、好みのものが出てくるとは限りません。最も高頻度で遭遇するのが、チョリソーとポテト。しかも、お通しの割にはボリューミー!!1軒目は美味しく頂けますが、運が悪ければ2軒目、3軒目も同じメニューが続きます。今日はこれしか食べてないという日もありました。
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チョリソーとプライドポテトに辟易している時に出会ったお洒落で美味しいお通しタパス。あまりの美味しさに「これは何ですか?」とウェイターさんを呼び止めてしまいました。中身がロブスターと聞いて納得しました。わかりやすく表現すると、ロブスターの身がゴロゴロと入った上品な揚げ春巻きといったところです。
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軽く炙ったホタテにレモンを絞っていただく地中海沿岸らしい1品です。
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レストランに入るとタパスセットを勧められることも多かったです。セットだと好みでないものも混じってくるので好き嫌いのない人ならお得かもしれません。手前の左側は、トルティージャ・エスパニョーラというスペイン風オムレツです。家庭で作られることも多い身近な料理で、じゃがいもがたっぷりと入った厚みのあるケーキのような見た目が特徴です。一番奥に見えているのはクロケットは、クリームコロッケです。f:id:greenbirdchuro:20190819192344j:image

 

お気に入りのタパスは、やっぱり生ハムです。生ハムの塩加減とカリッとしたバゲットがぴったり!それにしても、見ただけでお腹いっぱいになりそうなタパスの盛り合わせ。これが前菜とは、恐るべしスペイン人の胃袋・・・それを何度も頼んで後悔する学習能力の無いわたし・・・。米は締めだろう!?とつっこみたくなりますが、パエリアが前菜に出てくることも多いので、注意が必要です。
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プルポ・ア・ラ・ガジェーガは、ゆでたタコを切って、パプリカと塩とオリーブオイルをかけるだけというシンプルなタパスです。衛生上の理由で廃れつつあるものの木皿で提供されるのが伝統的。本来は、ガリシア地方の名物ですが、スペイン国内で広く食べられているようで、アンダルシアでもよく目にしました。柔らかいのにプリプリとし食感のタコに手が止まりません。パプリカがアクセントになったシンプルな味付けはビールや白ワインのお供にぴったりです。
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もちろん、レモンをたっぷり絞っていただくタコのフライも外せません。スペインの調理法をざっくりと分類すると「北部は煮る・中部は焼く・南部は揚げる」なんだそうです。シーフードを揚げるというのはアンダルシア地方の最も得意とするスタイル。ハズレがあるわけありませんよね。f:id:greenbirdchuro:20190820111608j:image

 

メヒジョネス・アル・バポルは、地中海沿岸諸国でよく食べられるムール貝をニンニクや胡椒、ローリエ、オリーブオイルを使って蒸したシンプルな料理です。ムール貝の旨味が楽しめるさっぱりした一品で、白ワインと一緒に楽しむのがおすすめ。添えられたレモンをさっと絞ると味わいの変化も楽しめます。f:id:greenbirdchuro:20190819192356j:image

 

カラマレス・ア・ラ・ロマナ(イカのローマ風)というお洒落な名前ですが、いわゆるイカリング。どこのバルでも必ず目にする定番メニューです。f:id:greenbirdchuro:20190819192328j:image


ボケロネス・フリットは、アンダルシア地方の名物料理の1つです。まるごと揚げたカタクチイワシは、頭から尻尾まで骨ごとバリバリ食べられます。内臓の苦味を僅かに感じますが、美味しく食べられます。
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メルルーサはタラ目メルルーサ科の海水魚の総称ですが、タラ(バカラオ)とは全く別物。バカラオに次いでよく食べられる白身魚で、グリルで提供されることが多いように思います。味付けのしっかりしたボリューミーなお料理や揚げ物が続くスペインで、あっさりとした塩味は胃腸にも嬉しい一品です。
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トマトソース煮込みのアルボンディガはミートボールのことです。見た目通りの馴染みのある味でした。
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ビーフ・ポーク・チキン・ラムのミックスグリル。塩だけでグリルして加減で美味しいんですが、相変わらず量が多いことで・・・。
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スペイン料理と聞いて、誰もがまず思い浮かべるパエリア。米と野菜、魚介類、肉などの食材をスープで炊き込むバレンシア発祥のお料理です。日本ではパエリアというとシーフードが主役のように思われがちですが、それはツーリズム向けに後で考案されたもので本来はバレンシア風のミックスパエリアのように鶏肉やウサギ肉が主役。しかも、スペインに稲作をもたらしたイスラム教徒に由来する料理なんだそうです。
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パエリアに次いで有名な米料理のアロス・カルドッソは日本でいうところのおじやみたいなものです。凝縮されたロブスターの旨味が米に染み込んだとても贅沢な一品でした。炊き上がったご飯から作るおじやと違い、生米から作るので、パスタに例えるならアルデンテくらいの食感で、スープでサラサラと食べれてしまいます。f:id:greenbirdchuro:20190819192331j:image

 

勉強を始めたばかりのスペイン語の腕試しと、バルのハシゴでタパスを楽しむ事を目標にしたアンダルシア旅行。バルでは、無料で出てくるタパスのせいで食べたいものにたどり着く前に満腹になったり、酔っ払ったり・・・となかなか思うような楽しみ方ができませんでしたが、アンダルシアの人はきさくで陽気で、楽しい時間を過ごすことができました。初めはスペイン語で話しかけると英語が(時に日本語)返って来て拍子抜けでしたが、地元の人たちが根気よく付き合ってくれたおかげで、後半はなんとなく会話らしきものも出来たような、、、出来てないような・・・。スペインが太陽の国だということを始めて実感できた旅になりました。

マラガ国際空港からトルコ経由で帰国の途につきます。

 

増補新版 家庭で作れるスペイン料理:パエリャ、タパスから地方料理まで

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人気店が教える 小さなバルの絶品レシピ

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アルハンブラ宮殿 後編

ナスル朝宮殿の最後を締めくくるのが、ライオン宮。なんと、王以外の男性は立ち入り禁止のハーレムだった場所です。国や文化や宗教が違ってもどこにでもあるもんですね・・・。そのライオン宮のハイライトがライオンの噴水を中央に配したライオンの中庭です。中庭をとり囲むように廻らされた柱廊は、キリスト教の建物にありそうな回廊になっていて、さらにその回廊の周囲をアベンセラヘスの間・諸王の間・二姉妹の間といった王のプライベートな居住スペースが取り囲んでいます。f:id:greenbirdchuro:20190818162030j:plain

 

中庭に面した回廊には124本もの大理石柱が森か林のように並んでます。柱の上部のアーチ部分に施された精細な漆喰細工は実に見事です。f:id:greenbirdchuro:20190818000833j:image

 

実は、運悪く修復工事中だったライオンの中庭。工事機材やパーテーションを避けて写真を撮るのが精一杯でした。中庭の中央には、円形に配置された12頭のライオンが大きな水盤を支える噴水がありました。このライオンの噴水は水時計になっていて、水を噴き出すライオンの数で時間を表わしているそうです。もう使われていないのか、それとも単に工事中のせいなのかライオンの口から水が出ている様子を見ることはできませんでした。見た目のかわいさははライオンというより仔犬でしたけど。
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中庭の南側にあるアベンセラヘスの間の一番の見どころは、ムカルナスと言われる無数の鍾乳石状の繊細な装飾がびっしりと施された16角の星型天井です。まさに、満点の星空の下にいるようで、息をするのを忘れるほどの美しい空間です。ところが、お洒落な響きすらするこの部屋の名前が、この場所で惨殺された豪族アベンセラヘス一族の家名に由来すると知ると一気に現実に引き戻されます。なんでも、一族の長男が王の愛妾と密通して、ボアブディル王の逆鱗に触れたとか。そりゃあ、お咎めなしというわけにはいきませんけど、一族皆殺しはやり過ぎな気がします。f:id:greenbirdchuro:20190819002307j:image

 

壁の上部にはびっしりとアラベスク模様が描かれ、二連アーチの内側にまで色漆喰の細工が施されています。アーチの奥に見える天井の木組細工もなかなかのものです。ここで陰惨な出来事があったとは信じられませんが、飛び散った血がこの細かな色漆喰の隙間に残っているかもしれません。何しろ中庭まで血で染まるほど凄惨な処刑だったそうですから。ちなみに、惨殺を命じたボアブディル王は、アルハンブラ宮殿をイサベル女王に開城したナスル朝のラストエンペラーです。f:id:greenbirdchuro:20190818162631j:plain

 

 王の寝室であった諸王の間は、修復工事中で入ることができませんでした。閉ざされた部屋の前に掲げられた看板情報によると、偶像崇拝を禁ずるイスラム教では珍しく、諸王の間の天井にはナスル朝の10人の王を描いた革絵があるそうです。ライオン宮を造ったムハンマド5世は、カスティーリャ王国のペドロ1世と懇意にしていたそうですから、キリスト教国がイスラム芸術の影響を受けてムデハル様式を生み出したのとは逆パターンで、イスラム教国もキリスト教文化の影響を受けていたことがうかがえます。f:id:greenbirdchuro:20190818162816j:plain

 

前室を見れば、諸王の間がいかに手の尽くされた豪華な部屋だったかがわかります。アーチ型の壁で細かく仕切られた前室の天井にも見事な鍾乳装飾が施されていました。f:id:greenbirdchuro:20190818162812j:plain

 

ライオンの中庭の北側にある二姉妹の間は、部屋の中央にそっくりな大理石の敷石があることから名付けられたそうです。床から天井までびっしりと施された壁装飾の空間は、アベンセラヘスの間に劣らず圧巻です。おぞましいエピソードも無さそうですし。f:id:greenbirdchuro:20190818163138j:plain


天井もアベンセラヘスの間と同じムカルナスです。透かし彫りが施された二連アーチの窓から差し込む柔らかな光が、数種類の基本タイルだけを何千片も組み合わせて造られた立体的な丸天井を神秘的に照らしています。f:id:greenbirdchuro:20190819002317j:image

 

二姉妹の間の奥には、リンダラハのバルコニーがありました。装飾で埋め尽くされた壁にある二連アーチの窓の外には緑豊かなリンダラハの中庭を望むことができます。窓の上部を縁取るように神とムハンマド5世への賞賛と詩が文字装飾で刻まれています。ちなみに、囚われの身だった二姉妹ソライダとリンダラハが、この出窓から中庭を見下ろしたという言い伝えがこのバルコニーの名前の由来です。となると、二姉妹の間の名前が大理石の敷石から名付けられたという話もなんだか怪しくなってきます。
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リンダラハの中庭を見下ろすと、中央に設置された噴水を取り囲むように大きな糸杉の木とキッチリと剪定された植栽が幾何学模様に配置されています。1626年に設置された噴水の水盤はもともと黄金の間にあったものだそうです。部屋の中に噴水を造るなんて違和感がありますが、砂漠の民の水に対する強いこだわりを感じます。アルハンブラ宮殿に入ったキリスト教徒も違和感を感じたからこの中庭に噴水を移したのかもしれません。杉以外にもアカシア、オレンジ、ツゲなとが植えられていて、この季節でなければもっと彩のある風景が楽しめたはずです。
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中庭のまわりに廻らされた渡り廊下の先にはアメリカの作家ワシントン・アーヴィングが「アルハンブラ物語」を執筆した部屋がありました。f:id:greenbirdchuro:20190818163540j:plain

アルハンブラ物語 (講談社文庫)

アルハンブラ物語 (講談社文庫)

 

 

 渡り廊下から見えるアルバイシン地区の街並みです。アンダルシアの青空に映える白い街並みが壮観です。f:id:greenbirdchuro:20190818163720j:plain

 

ナスル朝宮殿を見終えて出口へ向かうとパルタル庭園の中に建つパルタル宮が見えてきました。池に鏡写しになった1階部分の華奢な五連アーチと貴婦人の塔の佇まいがとても上品です。ナスル朝時代、アルハンブラ宮殿の中で最も古い歴史のあるパルタル宮殿の周囲には貴族の宮殿や邸宅が建ち並んでいました。f:id:greenbirdchuro:20190818163855j:plain

 

緑のアーチの向こうには、緑の額ぶちで切り取った絵画のようにサンタ・マリア教会の鐘楼が青空を衝いてそびえています。17世紀に教会に建て替えられるまでは、この美しい絵画の中に君臨していたのはモスクだったはずです。f:id:greenbirdchuro:20190818164130j:plain

 

最後は、チノス坂を挟んで少し高台の太陽の丘にあるヘネラリフェです。下の庭園と呼ばれる広大な庭園を通って離宮に向かいます。果樹園を整備して造られた美しい庭園の糸杉に囲まれた通りを歩くのはなんとも楽しい気分でした。f:id:greenbirdchuro:20190819160505j:image

 

アルハンブラ宮殿とアルバイシン地区の街並みを見渡すこともできます。f:id:greenbirdchuro:20190818165706j:plainf:id:greenbirdchuro:20190818165711j:plain

 

ヘネラリフェは、14世紀初め頃にムハンマド3世によって建築された夏の離宮で、歴代の王達が休暇を過ごした水の宮殿とも呼ばれる場所です。アルハンブラ宮殿でも屈指の見所なのでナスル朝宮殿と同様に入口でチケットのチェックがあります。f:id:greenbirdchuro:20190818164359j:plain

 

入場してすぐに、ヘネラリフェ一番の見所であるアセキアの中庭が見えてきました。水路・掘割を意味するアセキアの名に相応しく、長方形の中庭の中央には細長い池が配置されています。水路の上に噴水の描くアーチがなんとも涼しげです。中庭の西側には壁の上部に漆喰細工が施されたアーチのバルコニーが廻らされています。f:id:greenbirdchuro:20190818164431j:plainf:id:greenbirdchuro:20190818164435j:plain

 

バルコニーのアーチの向こうにはアルハンブラ宮殿とアルバイシン地区が広がり、左右どちらを見ても美しい景色を望むことのできる贅沢な場所になっています。f:id:greenbirdchuro:20190818165043j:plain

 

アセキアの中庭の隣はスルタナの中庭です。スルタナの中庭(糸杉の中庭)の中央にはアラヤネスの生け垣に囲まれた池があり、さらにその池の中に石の噴水のある小さな池があります。ボアブディル王に処刑されたベンセラヘス一族の長男が王の愛妾が逢瀬を重ねたのはこの中庭にある古い糸杉の下だと言われています。f:id:greenbirdchuro:20190818164853j:plain

 

控えめな姿ながらも絶え間なく涼やかな音をたてる噴水は、シエラ・ネバダ山脈の豊富な雪解け水を利用したもので、自然の高低差を利用して噴き出しているそうです。目を閉じればマイナスイオンの音がしてきそうな癒しの空間です。相手さえいれば、わたしもここで逢引してみたいものです。処刑は勘弁ですが。f:id:greenbirdchuro:20190819204440j:plain

 

スルタナの中庭から月桂樹の葉で囲まれ石の階段を通って上の庭園に行くことができます。眼下にはアセキアの中庭のアーチ回廊があり、先ほどよりさらに高い場所からアルハンブラ宮殿とアルバイシン地区の街並みを眺めることができます。これだけ宮殿から離れていれば、逢引が王にバレるとは思ってなかったのでしょうね。f:id:greenbirdchuro:20190818165308j:plain

 

緑のトンネルを通って出口に向かいました。もっとじっくり見たい気持ちもありましたが、何しろ明け方から歩きっぱなしで、体力も空腹も限界だったので・・・。帰りはヌエバ広場まで下り坂が続きます。
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ダロ川のほとりのトリステス通りから見上げたアルハンブラ宮殿です。正面にそびえているのがコマレス宮のコマレスの塔ですね。建て増し感満載の宮殿の外観はむしろ無骨なくらいですが、その内部にはイスラム芸術の最高傑作が目白押しでした。f:id:greenbirdchuro:20190818170204j:plain

 

ついでに2008年に亡くなったフラメンコの神様マリオ・マヤの像と記念撮影。恥ずかしさを堪えながら精一杯真似てみましたが、フラメンコにもフラダンスにも程遠い仕上がりになってしまいました。f:id:greenbirdchuro:20190818170441j:plain

 

NHK 探検ロマン世界遺産 アルハンブラ宮殿 (講談社 DVDBOOK)

NHK 探検ロマン世界遺産 アルハンブラ宮殿 (講談社 DVDBOOK)

  • 作者: 寺井友秀(チーフ・プロデューサー),「探検ロマン世界遺産」取材班
  • 出版社/メーカー: 講談社
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アルハンブラ宮殿 前編

早起きが続きます。

常に大行列が出来るアンダルシアの観光スポットの中でもアルハンブラ宮殿http://www.alhambra-patronato.es)は断トツに混雑します。1日の入場制限がある上、最大の見どころであるナスル朝宮殿に至っては個別に指定された見学時間にしか入場できません。翌日は帰国予定だし、ここまで来てアルハンブラ宮殿に入れないとかありえないので、ぬかりなく事前にチケットの予約をしておきました。

入場チケット公式予約サイト:https://tickets.alhambra-patronato.es/en/

 

キリスト教国のレコンキスタによって13世紀の半ばにはイベリア半島に残されたイスラム教国は グラナダだけになっていました。ナスル朝を開いた賢王ムハンマド1世は、グラナダを王都とし、巧みな外交政策で独立を保ちながら王国の発展に尽力してきました。そして、豊かに栄えるグラナダの市街地を見下ろす丘の上にアルハンブラ宮殿の建設を始めたのです。歴代の王によって着々と建設が進められ、完成したのはムハンマド5世の治世。イスラム芸術の結晶とも言える美しい宮殿は、人々をして「王は魔法を使った」と言わしめたほどでした。しかし、栄華を極めたグラナダ王国もレコンキスタに抗いきれなくなり、1492年にアルハンブラ宮殿は陥落。最後の国王ボアブディルはイサベル女王に宮殿を明け渡して、惜別の涙を流しながら北アフリカに逃れたそうです。

 

街の中心部からアルハンブラ宮殿へはバスも出ていますが、少しでも混雑を避けたくて、まだ暗いうちにホテルを出発しました。

 

宮殿入口まで20分ほど続くゴメレス坂を上り始めると、前方にわたしと同じくアルハンブラ宮殿を目指していると思しき同志の姿を発見しました。今の同志は数時間後のライバルです。あわよくば追い越してしまおうと思いましたが、わたしの純日本人的長さのコンパスでは勝負にならなさそう。日本人の最大の武器「勤勉さ」をもって臨んだ早起き勝負では既に敗北を喫しています。人は人、急がば回れ、金持ち喧嘩せず・・・この状況とはどんどんかけ離れていく格言で自分を納得させつつ出遅れないようについていくしかありません。f:id:greenbirdchuro:20190818092854j:plain


ゴメレス坂を登りきったところにザクロの門が見えてきました。いまや都会では幻の果実となりつつあるザクロはスペイン語でグラナダを表しています。ザクロの硬い果実が開いている様子を難攻不落だったグラナダの陥落に例えているんだとか。このエピソードからも、この門を造ったのはイスラム教徒ではないことがわかりますが、レコンキスタでの勝利を祝って1536年にこのザクロの門を造ったのはカルロス5世でした。f:id:greenbirdchuro:20190818000852j:image

 

ザクロ門の先もまだまだゴメレス坂が続きます。左手には宮殿を取り囲む城壁がずっと続いていて、入口はまだまだ先です。f:id:greenbirdchuro:20190818100303j:plain

 

先を急ぐわたしの左手に突然現れたのがビブランブラの門です。森の中に建っていて、城壁とは連続しない不自然な場所ですが、もともとは旧市街のビブランブラ広場近にあったメディナの入り口だったそうです。一旦は、取り壊しが決まって撤去されたものの、やっぱり保存しようということになってこの場所に再構築されました。本来の場所とも役目とも違う寂しい場所だけど、取り壊されなくて良かったですね。f:id:greenbirdchuro:20190818100308j:plain

 

Web予約していたチケットを受け取るために宮殿の東の外れにあるチケットセンターに着いたのはちょうど日が昇り始める頃でした。すでに大行列が出来始めていますが、早起きは3文の得を実感するキレイな朝焼けです。この格言はぴったりです。f:id:greenbirdchuro:20190818100311j:plain

 

チケットセンターで、旅の恥はかき捨ててお決まりの記念撮影。f:id:greenbirdchuro:20190818110207j:plain

 

メインエントランスから観光をスタートします。f:id:greenbirdchuro:20190818112838j:plain

 

レアル通りを歩いていくとアルハンブラ・サンタ・マリア教会が見えてきました。宮殿内の建物の中でレコンキスタ後にキリスト教徒によって建てらた建物はカルロス5世宮殿とこの教会だけ。スルタン達が暮らしたアルハンブラ宮殿を見下ろすこの場所に、ムハンマド3世が建てたモスクを取り壊して建てられたことからも、キリスト教徒の優位性を示すカトリック両王の意図が伺え、なんとも興味深いですね。f:id:greenbirdchuro:20190818111157j:plain

 

ルネサンス様式の装飾が施されたファサードはカルロス5世宮殿のものです。63m四方の正方形をしたルネサンス様式の建物は、イスラム建築が特徴的なアルハンブラ宮殿に中にあっては、無機質に感じられ明らかに浮いています。1527年の着工から1957年の完成まであまりに時間がかかりすぎているので、王とその家族のための生活の場という本来の目的はほとんど果たせなかったと思われます。工事期間が長かった理由も、資金不足や反乱や諸々・・・といったヨーロッパあるあるです。f:id:greenbirdchuro:20190818121003j:plain

 

宮殿の中は、円形の中庭をたくさんの列柱が取り囲むがらんとした構造になっています。あらゆる困難を乗り越えて最後までやり遂げたことは評価しますが、長い期間をかけた割に・・・と思わないでもありません。ルネサンス様式で唯一とされる円形の中庭の存在で、辛うじて価値を見出すことが出来たかなと言ったところ。2階はアルハンブラ宮殿で発掘された出土品を展示するアルハンブラ美術館になっています。f:id:greenbirdchuro:20190818120959j:plain


アルカサバのあるエリアへの入口にあるぶどう酒の門は、ムハンマド2世の時代に造られたアルハンブラの中で最も古い建物の一つです。二連アーチ付きの窓の下のレンガ製アーチの上部は多彩色モザイクで美しく装飾された典型的なイスラム様式です。f:id:greenbirdchuro:20190818111023j:plain


門の先にあるアルカサバは、ローマ時代の砦をもとにキリスト教国から都を守るために築かれた要塞です。アラブの軍事技術を結集した要塞の歴史はアルハンブラで最も古い9世紀までさかのぼります。興味はあったのですが、ナスル朝宮殿の入場時間が迫っているのでここは先を急ぐことにします。f:id:greenbirdchuro:20190818000836j:image

 

いよいよ、ナスル朝宮殿に入っていきます。内部が、メスアール宮・コマレス宮・ライオン宮に分かれたアルハンブラ宮殿で一番の見どころだけあって、なんと入場時間が30分刻みに決められており、30分すぎると入場さえできないというスペインらしからぬ時間厳守のエリアです。f:id:greenbirdchuro:20190818124742j:plain

 

メスアール宮から始まるナスル朝宮殿観光で、最初に足を踏み入れるのがメスアールの間です。アルハンブラ宮殿に現存する建物の中で最も古い部屋で、政治・裁判の場として使用されてきました。中二階のように見えるのは、レコンキスタ後に礼拝堂として使われた時の聖歌隊席ですf:id:greenbirdchuro:20190818131252j:plain


色鮮やかなモザイクタイルの壁もカワイイですが、何と言ってもイスラム建築の真骨頂は天井にあります。イスラム様式らしい細密な模様の木組み天井は一部がオリジナルなんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190818124745j:plain

 

壁の漆喰装飾のアラベスク模様も見事です。大味なカルロス5世宮殿の後だけに、部屋の隅々までびっしりと施された装飾に安堵さえ覚えてしまいます。アンダルシアを旅していると段々とすき間恐怖症になっていくみたいですね。f:id:greenbirdchuro:20190818124753j:plain

 

祈祷室の壁の透かし彫りの窓の下には、馬蹄形アーチの窓が並び、その向こう側にはアルバイシン地区の美しい街並みが広がっています。f:id:greenbirdchuro:20190818124756j:plainf:id:greenbirdchuro:20190818124759j:plain

 

来訪者の控室だった黄金の間の壁には、もともと金箔が施されていたそうです。天井の細かな木組み細工に残る金装飾にその名残を感じます。セビリアのアルカサルの大使の間と同じく、謁見に訪れた大使たちに圧倒的な力を見せつけるためと思われます。f:id:greenbirdchuro:20190818125232j:plain

 

メスアールの間の隣には、メスアールの中庭があります。中央に大理石の噴水(あまり清潔ではなかったので自粛)が設置された白壁の明るい空間は、四方を建物で囲まれています。コマレス宮に続く前方の壁には、色鮮やかにタイル装飾で縁取られた2つの青銅の門が並び、門の周囲はアラベスク模様の漆喰細工で埋め尽くされています。f:id:greenbirdchuro:20190818125235j:plain

 

アルハンブラ宮殿といえば、アラヤネスの中庭の水面にコマレス宮のコマレスの塔が鏡写しになっているこの光景を思い浮かべる人も多いはず。アラヤネスの中庭の名前は、池の両側に並ぶ刈り込まれたアラヤネス(天人花)という植物に由来しています。水鏡に映る堂々としたコマレスの塔は、50mの高さがあります。f:id:greenbirdchuro:20190818000830j:imagef:id:greenbirdchuro:20190818135050j:plain

 

中庭に面した柱廊の両端にあるアルコーブにもぬかりはありません。アーチにはアラベスク模様、天井には鍾乳石飾りが施されています。確かに鍾乳洞のように見えます。f:id:greenbirdchuro:20190818140217j:plain

 

コマレスの塔の中に入ると、天井が船底の形をしていることバルカの間と呼ばれる細長い部屋がありました。大使の間に続く控室だったそうですが、寄木天井の細かな幾何学模様がとても美しいですね。f:id:greenbirdchuro:20190818135536j:plainf:id:greenbirdchuro:20190818135456j:plain

 

コマレス宮の最大の見どころである大使の間は、宮殿の中で最も広い部屋です。星空をイメージしたデザインがかわいらしい木組天井と壁一面に刻まれた漆喰細工、透かし彫りの窓・・・どれをとっても見事の一言に尽きます。諸国の大使が王に謁見するための部屋で、この場所でイサベル女王に謁見した人物の1人がコロンブスです。長い時を経て、歴史の名場面に立ち会っているような感動を覚えます。f:id:greenbirdchuro:20190818000902j:image

 

ほとんど天井しか写ってないじゃないかと思われそうですが、それ以外がどうなっているかというと・・・人人人・・・カオスです。入場時間を制限したところで、出場時間が決まっているわけではないので、見どころに人が溜まっていく一方。f:id:greenbirdchuro:20190818141508j:plain

 

ライオン宮に続きます。

 

旅名人ブックス64 アルハンブラ宮殿

旅名人ブックス64 アルハンブラ宮殿

 
NHK 探検ロマン世界遺産 アルハンブラ宮殿 (講談社 DVDBOOK)

NHK 探検ロマン世界遺産 アルハンブラ宮殿 (講談社 DVDBOOK)

  • 作者: 寺井友秀(チーフ・プロデューサー),「探検ロマン世界遺産」取材班
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/08/24
  • メディア: 単行本
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イスラム文化香るかつての王都グラナダ

2018年の元旦も早起きでした。「1年の計は元旦にあり」が真なら今年も忙しなく動き回る年になりそうだなと思いながら、大晦日の延長戦をしている酔っ払いを避けるようにコルドバの鉄道駅のすぐ北側にあるバスターミナルに向かいました。既にチケットは入手済みですが、毎度のことながら、早く来すぎたようで誰一人見当たりません。f:id:greenbirdchuro:20190816215552j:plain

 

民族大移動が繰り広げられる感謝祭やクリスマスと違って、キリスト教国での大晦日と正月は普通の祝日よりちょっと特別なくらいなので、移動する人もあまりいないのか、ターミナル内は閑散としていました。お馴染みの大手バス会社ALSAでシエラ・ネバダ山脈の北西麓に位置するグラナダまで約2時間のバス旅です。f:id:greenbirdchuro:20190816223821j:plain

 

思いがけず車窓から初日の出を拝むことができました。太陽の国を地で行くアンダルシアの初日の出は格別です。楽しい1年が始まりそうな予感・・・。f:id:greenbirdchuro:20190817085824j:image

 

チェックインには早い時間なので、ホテルに荷物を預け、街歩きを始めます。

グラナダの玄関口とも言えるイサベル・ラ・カトリカ広場にやってきました。大きな噴水の中央にあるモニュメントは、コロンブスが航海への出発を報告するためにイザベラ女王に謁見する場面を表現したものです。f:id:greenbirdchuro:20190816221625j:plainf:id:greenbirdchuro:20190818093701j:plain

 

レジェス・カトリコス通りを北東に向かうと、ヌエバ広場が見えてきます。格子柄にタイルの貼られた長方形の広場の真ん中にはイスラム風の噴水があり、広場の周囲にあるカフェやレストランのテラス席が並んでいます。ヌエボ(バ)は新しいという意味のスペイン語ですが、ヌエバ広場と名のつく広場が新しかった試しはありません。実際のところ、この広場が造られたのは16 世紀です。f:id:greenbirdchuro:20190816222437j:plain

 

ヌエバ広場周辺には、歴史を感じさせるステキな建物が並んでいます。このバロック様式とルネサンス様式が混在した美しい外観の建物は、アンダルシア高等裁判所です。広場が造られたのと同時期に王立大審問院として建てられました。街でも指折りのバル広場と歴史ある裁判所というミスマッチもグラナダらしい気がします。f:id:greenbirdchuro:20190816222447j:plain

 

広場を背にして左側にはレイジェス・カトリコス通りというメインストリートのが伸びています。元旦の午前中ということもあってか比較的閑散としていました。ところが、翌日の午後になると・・・f:id:greenbirdchuro:20190816221641j:plain

今までどこに隠れていたんですか?という人出で車道も歩道の境界もわからないほどになっていました。何か始まるのかな?と思って地元の人に紛れて待っていると・・・f:id:greenbirdchuro:20190816222718j:plain

予想通り!何かお祭りらしきものが始まりました。鮮やかな衣装に身を包んだ人々や複数のマーチングバンドが長い列を成して大通りをパレードしていきます。地元の人に尋ねてみても、まだスペイン語を勉強し始めたばかりだったわたしにはチンプンカンプン・・・。後で調べてみると、トマ・デ・グラナダというグラナダ開城記念日のパレードだったことが判明しました。f:id:greenbirdchuro:20190816222722j:plain開城記念日(1月2日)は、すなわちレコンキスタが完了した日です。今更ですが、レコンキスタとは、キリスト教国家がイスラム支配下にあったイベリア半島を取り戻す(再征服・国土回復)ための活動です。8世紀から始まったレコンキスタによって、13世紀半ばにはイベリア半島に残るイスラム勢力はグラナダのナスル朝のみになっていました。しかし、ここからが長かった・・・。アルハンブラ宮殿は難攻不落、しかもキリスト教勢力の内輪揉めもあってなかなかグラナダを陥落させることができません。グラナダの内乱という好機を逃さず攻め入ったカスティーリャがアルハンブラ宮殿を陥落させ、ナスル朝が滅亡したのが1492年1月2日。このパレードが祝っていたのは、何百年もかけたレコンキスタの終結した記念日だったというわけです。

 

旧市街の中心に建つグラナダ大聖堂(カテドラル・サンタ・マリア・デ・ラ・エンカナシオ)は、建物自体が大きい上に、周囲の広場や道路が狭いため、その全体像を写真に収めることができません。大聖堂が最もよく見えるラス・パシエガス広場でさえも、正面ファサード以外は周囲の建物に遮られてしまっています。しかし、そこから見える大聖堂の姿は、アンダルシアの青空によく映え、「スペインルネサンス建築の傑作」の評価に違わぬ美しく堂々とした佇まいです。建設が始まった当初はゴシック様式でしたが、着工からわずか5年ほどでルネサンス様式に変更になっています。その上、1704年の完成まで180年もの月日を要したため、バロック様式も混在する「ヨーロッパの教会あるある」の状態を見ることができます。f:id:greenbirdchuro:20190816215606j:plain

 

当初は、正面ファサードの両脇にそれぞれ81mの塔が建つ予定でした。しかし、左側にかろうじて見えている塔は大聖堂身廊の屋根より少し高い程度の57m。しかも、途中で工事を止めたことが明らかな塔とは言い難い姿です。なんでも財政難のために工事を続けることができなかったとか。これも、「ヨーロッパの教会あるある」です。f:id:greenbirdchuro:20190817184908j:plain


右側に至っては、塔の気配すらなく、代わりにサグラリオ教会が造られています。大聖堂への入場は、内部が繋がっているこのサグラリオ教会から。ちなみにカトリック両王の聖廟がある王室礼拝堂も大聖堂やサグラリオ教会と一体になっています。かつて、この場所にはナスル朝の巨大モスクが建っていました。これらの建物がすべてモスクの跡地にできたことを考えるとモスクの規模の大きさが覗えます。f:id:greenbirdchuro:20190816215558j:plain

 

サグラリオ教会の側面にあるオフィシィオス通りを歩くと、王室礼拝堂が見えてきました。王立礼拝堂は、カトリック両王の命で、王家の墓所としてエンリケ・デ・エガスによって16世紀前半に建造された後期ゴシック様式の建物で、その霊廟にはフェルナンド2世と妻イサベル1世の棺が安置されています。両王はレコンキスタ終結の地となったグラナダに思い入れが強かったようですね。味のある外観をした礼拝堂ですが、レコンキスタを終結させて国土を統一し、コロンブスに出資して新大陸に植民地を築いて、本国の国力を高めたカトリック両王の偉大な業績を考えると質素に思えます。「盛大な葬儀を行って立派な墓所を造るくらいなら貧しい教会に寄付するように」というイサベル1世の遺言が果たされたということでしょうか。f:id:greenbirdchuro:20190816220030j:plainf:id:greenbirdchuro:20190816220033j:plain

 

大聖堂の南側は、イスラム支配時代に絹織物の取引所だったアルカイセリアと呼ばれる場所です。現在もスークの雰囲気を残したバザールといった感じで、お土産屋さんが軒を連ね、買い物客で賑わう観光名所になっています。f:id:greenbirdchuro:20190816215823j:plain

 

アルカイセリアに並ぶ土産物のラインナップは、皮製品・洋服や服飾小物・水タバコの装置・陶器・工芸品 etc・・・。商品の真贋を見分ける眼力など持ち合わせていないので、押しが強くなくて、わたしのつたないスペイン語に気長に付き合ってくれる感じの良い店員さんのお店でストールを数枚購入しました。f:id:greenbirdchuro:20190816215826j:plain

 

アルカイセイアを抜けた先にあるヒブランブラ広場は、カフェやレストランに囲まれた賑やかな場所です。グラナダがイスラム支配からキリスト教支配へと変わった最初に造られた広場のようです。広場の中心には、噴水のあちこちに巨人が配されたロス・ジャイアンテスの噴水(つまり巨人たちの噴水)がありました。f:id:greenbirdchuro:20190816224134j:image

 

1月1日でどこも開いてないので、アルバイシン地区のロナ展望台まで登ってみました。旧市街から程よい距離で、グラナダ市内が一望できます。f:id:greenbirdchuro:20190816224641j:image

 

プラセト・サン・ミゲル・バホまで足を延ばしてみました。 f:id:greenbirdchuro:20190816225138j:plain

なかなかの眺めです。f:id:greenbirdchuro:20190816225210j:plain

 

さらに、サン・ニコラス展望台まで欲張ってみました。f:id:greenbirdchuro:20190816231906j:plain

翌日に訪れる予定のアルハンブラ宮殿が目の前に見えています。f:id:greenbirdchuro:20190816231915j:plain

宮殿の向こうに見えている冠雪の美しい山々は、シエラ・ネバダ山脈。f:id:greenbirdchuro:20190816231919j:plain

いよいよアルハンブラ宮殿に向かいますよ。

地球の歩き方フォトブック 旅するフォトグラファーが選ぶスペインの町33 (地球の歩き方 フォトブック)

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