時たま、旅人

自称世界遺産ハンターが行く!旅好き会社員の備忘録

カイザー・ヴィルヘルム記念教会とイーストギャラリー

ヴィッテンベルク広場駅の地下鉄出口は中央分離帯の中にありました。地上に出た瞬間に、この場所の雰囲気がこれまで観光してきたエリアとなんだか違うことに気が付きます。それもそのはず、降り立ったこの場所はかつての西ベルリン。

 

すぐ目に前にKaDeWe(カーデーヴェー)が建っていました。アメリカのデパートをモデルにして1907年に建てられたデパートで、Kaufhaus des Westens(西のデパート)の頭文字をとって名づけられました。東西分裂時代の西ベルリンの富の象徴だったそうです。今でもドイツ最大級のデパートとしてこの場所に君臨しています。多くの観光客がそうするように6階の食品売り場でお土産を買い、イートインで食事をしてみました。f:id:greenbirdchuro:20190713150331j:plain

 

ちょっとした広場になった中央分離帯からタウエンツィエン通りを見ると、1987年に造られたオブジェがありました。東西ベルリンの分断を象徴していたはずのオブジェが、今やドイツ再統一の象徴に変わっています。そして、その向こうに見えている新しいのか古いのかよくわからない不思議な教会がカイザー・ヴィルヘルム記念教会です。f:id:greenbirdchuro:20190713150137j:plain

 

カイザー・ヴィルヘルム記念教会は、3つの通りに挟まれたブライトシャイト広場にありました。その不可思議な佇まいは遠くからでも目をひきます。近づいて見ると、空襲で破壊された旧教会堂と鐘楼を挟んで東西にモダンな新教会堂と新鐘楼が建っているのがわかります。f:id:greenbirdchuro:20190715155424j:plain

 

旧教会の献堂式は1895年。建設のきっかけは、初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の功績を称えて追悼するというヴィルヘルム2世の提案によるものでした。コンペで選ばれたフランツ・シュヴェヒテンが設計したネオロマネスク様式の教会は、彼の生まれ故郷のラインラント地方の教会建築を模倣したものだったため、当時のベルリンではかなり異質な雰囲気を放ったようです。旧教会の5つの塔のうち最も高いものは113mで、当時のシャルロッテンブルク市で一番高い建物でした。f:id:greenbirdchuro:20190715155115j:plain


かつて旧鐘楼にあった5つの鐘は、戦争に勝ってフランスから手に入れたブロンズ製の大砲から鋳造されたものでした。そのうちの4つは第二次世界大戦時に再鋳造されて兵器に変わってしまったと言いますからなんとも因果なものです。ベルリン空襲で炎上した旧教会は一夜にして廃墟と化し、113mあった塔も折れて71mまで崩れてしまいました。残っていた一番小さな鐘もひどく損傷し、1949年に新しい鐘に取り替えられています。f:id:greenbirdchuro:20190713150215j:plain

 

戦勝国が旧教会堂再建に難色を示したため瓦礫の撤去が始まったのは1956年になってからでした。旧教会堂の内部に入ると、ヘルマン・シャーパーによって描かれた美しいモザイクが入り口ホールの天井を彩っています。旧教会の建設当時ですら時代遅れとされていた「王権神授説」という観念を表しているそうです。要するに「王権は神から付与されたもの、王より偉いのは神だけ、人民の反抗なんてもってのほか」という思想ですね。ヴィルヘルム2世にしてみれば、時代遅れ上等といったところでしょうか。モザイク画には罪はありませんので、ありがたく鑑賞させて頂きました。f:id:greenbirdchuro:20190713150229j:plain

モザイク画の中にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世への献呈板を見つけました。このモザイク画を見ると崩れてしまう前の旧教会の美しさが窺えます。f:id:greenbirdchuro:20190713150240j:plain

教会の歴史とともに戦争被害の様子が展示されていました。f:id:greenbirdchuro:20190713150250j:plain

 

西側(写真手前)に配置された八角形の建物が、新教会の身廊です。エゴン・アイアーマンは、旧教会堂の完全撤去を前提としたモダンな新教会を設計したため、旧教会の保存を望んだ市民側と激しく意見が対立しました。熱い議論が続いた結果、廃墟となった旧教会堂を戦災記念碑として残しつつ、その周りにアイアーマン設計の新教会堂、新鐘楼、小礼拝堂を建築するということで議論の着地をみています。出来上がった建物が新旧のアンサンブルになっているのはそういうわけです。f:id:greenbirdchuro:20190715154658j:plain

 

東側には53.5mの六角形の新鐘楼と長方形の小礼拝堂が建てられました。ベルリン市民によって化粧コンパクトケースと呼ばれる身廊に対して、新鐘楼の愛称はリップスティック。わたしの訪問時は運悪く修復の真っ最中。足場で覆われた新鐘楼は頂部の十字架がなければ教会感ゼロといった姿でした。新鐘楼には電動式のブロンズ製の鐘が6つ据えられていて、教会の行事ごとに異なるパターンで鳴るんだそうです。テレビ塔もテレ・アスパラガスと呼ばれていたし、ベルリン子は名所にあだ名を付けるのが好きなようです。f:id:greenbirdchuro:20190715154725j:plain

 

新教会の聖堂に入ると、壁を構成する青色のステンドグラスが織り成す幻想的な空間に息を呑みました。コンクリート枠にはめ込まれた2万枚以上のガラスにさす光が複雑に屈折し、青と言ってもとても多彩です。まるで澄んだ深い海の中から天を見上げているような、宇宙空間に浮かんでいるような、繊細にカットされた大きな宝石の中にいるような・・・言葉で表現するのが難しい神秘的な空間でした。f:id:greenbirdchuro:20190713150323j:plain

 

地下鉄Uバーンで再びベルリンの東側に戻ってきました。ファルッケンシュタイン通りをシュプレー川に向かって緩やかに下って行くとオーバーバウム橋が見えてきます。f:id:greenbirdchuro:20190713152045j:plain

 

オーバーバウム橋は、橋というよりもゴシック様式の建築物といった方がしっくりくる外観をしています。長さ124mの2階建の橋に備わった2本の美しいゴシック様式の塔は、1896年に開通したこの橋が関門の役割を担っていたことを象徴しています。東西分断時代は、西側に国境検問所が設置されて東西ベルリンをつないだ歴史の要所でした。東西ドイツの再統一によって道路と鉄道が再開され、1階には車道と歩道、2階にはUバーンの線路が敷かれています。数分おきにUバーンの黄色い車両が通過するのは美しくも不思議な風景でした。f:id:greenbirdchuro:20190713151743j:plain

 

東側から見たオーバーバウム橋。1700年代に架けられた初代の橋は木製の跳ね橋でした。夜間に川を遮断するために使用された硬い木の幹を指す上流の木(オーバーバウム)が橋の名前の由来になっています。ベルリンの壁の崩壊は東西の行き来が自由に出来るという奇跡のような誤報から始まりました。そのニュースを聞いた人々がこぞって集まった東西の境界の1つがこの橋だったそうです。f:id:greenbirdchuro:20190713152254j:plain

 

橋の南東を見ると、シュプレー川の中に巨大なアートモリキュールメン(分子の人)がそびえていました。3人が取っ組み合いをしているようにも見える高さ30mの鉄製アートはアメリカの彫刻家ジョナサン・ボロフスキーの作品です。トレプトー・クロイツベルク・フリードリヒスハインの3 つの地区を人に見立てて、それらが出会う場所を表したものだとか。そうなると取っ組み合いに見えたのはハグなのかもしれません。f:id:greenbirdchuro:20190713152232j:plain

 

ミューレン通りを北西に歩いていくとイーストサイドギャラリーが見えてきました。ここに残るベルリンの壁は現存する中でも最長の1.3km。その長い壁は、依頼を受けた世界中のアーティスト118名の作品が並ぶオープンギャラリーになっています。悲しい歴史を芸術の場に変えてしまうなんて、ステキな壁の再利用ですね。f:id:greenbirdchuro:20190713152403j:plain

 

数あるアートの中でも特に有名なのが、旧ソ連のブレジネフ書記長と旧東ドイツのホーネッカー書記長のキスシーンを描いた「兄弟キス」。人だかりができていたのですぐに見つけることが出来ました。二人の大物は兄弟だったわけでも、キスするような個人的な関係だったわけでもなくて、戦後の旧東ドイツ旧ソ連の間にあった密接な関係(癒着)を揶揄した作品だそうです。なかなかシニカルなことで。f:id:greenbirdchuro:20190713152443j:plain

 

実際に目にした壁は、ちょっと運動神経の良い人なら乗り越えてしまえそうな高さでした。もちろん、当時の壁上は有刺鉄線が張り巡らされていたり、周りに監視塔があったりの厳戒態勢で、言うほど簡単ではなかったこともわかります。でも、本当に超えるが難しかったのは、人々の心に植え付けられた見えない壁だったのかもしれません。

 

ベルリンの壁

ベルリンの壁

 
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