時たま、旅人

自称世界遺産ハンターが行く!旅好き会社員の備忘録

ザクセンハウゼン強制収容所

フリードリヒシュトラーセ駅からSバーンで北に向かうこと約45分、ブランデンブルク州ラニエンブルク駅に到着しました。この街がオラニエンブルクと呼ばれるようになったのは17世紀。この街をとても気に入っていたフリードリヒ・ヴィルヘルム選帝侯の王妃ルイーゼ・ヘンリエッテ・フォン・オラニエンが、彼女の出身地のオランダ風のお城を建ててオラニエンブルク城と名付けたことが街の名前の由来です。となると、ここまでお城でも見に来たのかと思われるかもしれませんが、これから向かうのは、悪名高きナチスザクセンハウゼン強制収容所・・・。f:id:greenbirdchuro:20190715212502j:plain

 

収容所行きのバスに乗ろうとバス停に行ってはみたものの、本数が少ない・・・。待っているより歩いた方が早そうなので、約2.5kmの道のりを徒歩で向かいました。収容所の目の前のバス停で帰りのバスの時刻をチェックしましたが、運の悪いことにその日は休日ダイヤ。2時間に1本程度の運行ときました。こうなると、帰りも徒歩確定ですな・・・。f:id:greenbirdchuro:20190715212612j:plain

 

バス停からすぐのところに死の行進を追悼する記念碑がありました。連合軍とソ連軍の進撃で撤退を余儀なくされたナチスの指導者たちは、強制収容所での犯罪の証拠を跡形なく消し去るために収容者を殺してその遺体を処分することを試みました。しかし、数万人単位に膨れ上がっていた収容者は、彼らの手に負える数ではありませんでした。そこに、収容者を船に乗せて船ごと海に沈めてしまうという恐ろしい計画が持ち上がったのです。港のあるリウベックを目指した250kmの行軍が始まったのが1945年4月21日。進むと進まざるとに関わらずそこには死しかないという辛い行軍は12日間に渡って続きましたが、ドイツ軍の壊滅により、収容者たちはリウベック湾の藻屑になる寸前に開放されました。ところが、その時には収容所を出発した2万6,000人の収容者は1万5,000人になっていたそうです。f:id:greenbirdchuro:20190715212654j:plain

 

記念碑の前で通りを曲がり、その突き当たりに強制収容所跡の入り口がありました。意外にも住宅地のど真ん中です。ザクセンハウゼン記念施設・博物館と書かれたスタイリッシュな壁はドイツ人建築家によるデザインです。この先に過酷な史実が控えているからこそ、あえてシンプルな外観にしてあるような気がしました。入り口の奥にはインフォメーションの建物が見えています。f:id:greenbirdchuro:20190715212726j:plainf:id:greenbirdchuro:20190715212730j:plain

 

インフォメーションセンターから強制収容所の敷地の入り口に向かう収容所通りを歩きます。朝一でやって来ましたが、思ったより先客が多いことに安心しました。ここまでやってきたものの、1人で収容所に足を踏み入れる自信がなかったからです。f:id:greenbirdchuro:20190715212816j:plain

 

収容所の航空写真を見ると、敷地はキレイな二等辺三角形をしていて、二等辺三角形の底辺の中央を中心に同心円状にバラックが整然と並んでいます。ナチス時代の他の強制収容所はどれも同じ構造をとっていました。指揮系統を明確にしつつ、中心から離れて目の届かない所に行こうとするほどに追い込まれて逃げ場を失うかのような構造になっています。ナチスは暴力に訴えるだけでなく、行動心理学的手法も駆使して収容者に絶対服従を刷り込んでいったことがわかります。f:id:greenbirdchuro:20190715214305j:plain

 

航空写真で見た二等辺三角形の底辺の真ん中にはゲートを兼ねたA棟が置かれていました。ここから収容所の敷地内へ入っていきます。f:id:greenbirdchuro:20190715212819j:plain

 

A棟の鉄門にはアウシュビッツと同じように「労働が自由をもたらす」という標語が掲げられていました。目にしたのがこの場所でなければ、決しておかしな格言ではありませんが、ナチスは強制労働を強いた収容者に自由を与えるつもりなど初めからありませんでしたから、この格言は綺麗事にもなり得ない皮肉の極みでしかありえません。f:id:greenbirdchuro:20190715212934j:plain門をくぐってすぐの場所にかつて収容者たちが点呼を受けたという半円状の点呼広場がありました。初めは1日3回行われていた点呼も収容者の増加につれて朝夕の2回に減っていきました。1937年には2300人だった収容者が大戦末期には4万7000人超にまで膨れ上がっていたそうなので当然の流れだったと思いますが、弱りきった収容者たちにとって数時間にも及ぶ点呼はとても過酷なものだったと思います。さらに、点呼広場の中には見せしめの処刑を行ったという絞首台跡の記念碑がありました。

 

広場の先には40mの高さのオベリスクがそびえていました。オベリスクの上部には収容者の胸につけられたワッペンと同じ逆三角形のロゴが入っています。てっきりナチスが建てたものかと思いましたが、東ドイツ時代の1961年に建てられたものだそうです。確かに共産主義社会主義の香りがプンプンする銅像です。f:id:greenbirdchuro:20190715213628j:plain

 

収容所の敷地はとても広大でした。今はただ広いだけの寒々しい空き地ですが、190ヘクタールの敷地の中には4列に渡って68棟のバラックが並んでいたそうです。f:id:greenbirdchuro:20190715213056j:plain

 

地面には、石が敷き詰められた鉄製の大きな長方形の枠が規則的に並んでいます。これは、バラックがどのように並んでいたかを可視化した跡地でした。f:id:greenbirdchuro:20190716182913j:plain

 

左手の建物は収容者が強制労働を強いられた工場です。f:id:greenbirdchuro:20190716184832j:plain


足元にあった白い石には強制収容所犠牲者のための集団墓地と刻まれていました。この集団墓地は全部で6箇所あり、50人ずつ埋葬されているそうです。彼らは収容所の解放後に医療棟で亡くなった収容者たちでした。死の行進に加われないほどに弱り切っていたとは言え、過酷な収容所生活を最後まで耐えぬいたのに、やっと解放された後に亡くなってしまったなんて、彼らの無念な気持ちは想像もつきません。f:id:greenbirdchuro:20190716183130j:plain



2.7mの高さの壁で囲まれていた収容所の壁沿いには高電圧の鉄条網と柵が張り巡らされていました。この鉄条網と壁の間のスペースが看守の巡視路だったそうです。古びた看板に書かれていた言葉は「この中に入ろうものなら即刻射殺」でした。f:id:greenbirdchuro:20190715212943j:plain

 

看守たちは、四方八方に配置された監視塔から収容者を24時間監視し続けました。収容者たちは、歩くスピードさえも厳しくとり決められていたので、少しでも周りと違った動きをしようものなら、すぐに見つかって捕らえられ、処罰されたそうです。f:id:greenbirdchuro:20190715213958j:plain

 

記念碑の右手奥にある壁を抜けると、そこには塹壕という表現が相応しい銃殺場がありました。ここが何をする場所なのか気が付いた時には思わず足がすくんでしまいました。壁にはヨーロッパ各国の言語で書かれた記念碑が掲げられていて、処刑された人々がヨーロッパ各地から連れてこられたことがわかります。f:id:greenbirdchuro:20190715213219j:plain

 

収容者の1人だったAndrzej Szczypiorskiという方の言葉が刻まれた入り口から中に入ると、そこは焼き釜が並べられた火葬場跡でした。1942年に造られたクレマトラウマにはガス室と4つの焼却場があり、動けなくなった収容者をシャワー室に見せかけたガス室で処刑して、次々に焼却したんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190715214113j:plain

 

火葬場の前に設けられた中央追悼所の記念像の前には多くの献花がありました。f:id:greenbirdchuro:20190715213728j:plain

こんな場所があるとは知らずに手ぶらでやってきてしまったので、追悼の気持ちを少しでも表せればと思案した末、日本人らしく千羽鶴を折って供えてきました。f:id:greenbirdchuro:20190715213734j:plain

 

残されたバラックの1つ1つは博物館として公開されていて、収容所での生活を垣間見ることができるようになっていました。恐る恐る足を踏み入れます。f:id:greenbirdchuro:20190715214411j:plain

 

強制労働を終えた収容者たちが帰るバラックにはベットが所狭しと並べられていました。反ユダヤ主義者によって放火されたこともあるため、ガラス越しにしか見れませんが、大人には狭すぎるベットが3段も積み重ねられていて、最上段は天井とキスできそうなくらい近接しています。ベットが足りないほど収容者が増えた時には座ったまま寝らなくてはならなかったそうです。f:id:greenbirdchuro:20190715213743j:plain

 

これは何百人もの収容者が共同で使用していた洗面台です。トイレに至っては仕切りもなく、もはやプライバシーがどうのこうのなんて言う次元ではありません。f:id:greenbirdchuro:20190715213753j:plain他にもたくさんの物を目にしましたが、次々と出てくる過酷な情報に心がついていけず、カメラを構える余裕がなかったので、後半部分はほとんど写真が残っていません。

 

再びA棟のゲートまで戻ってきました。最後に新博物館に寄ってみることにしました。ゲートのすぐ外にあった新博物館は、かつてナチス親衛隊用のカジノだったという建物でした。この強制収容所は、前後10年に渡ってソ連が戦争捕虜収容所として使用していたという経緯があり、そのためか内装やステンドグラスは「ザ・共産主義」といった感じです。でも、収容所で見たもので心が固まってしまっていて何を見たかもよく覚えていないという有様でした。f:id:greenbirdchuro:20190715213803j:plain

 

ザクセンハウゼン強制収容所は、首都に近いという地理的条件もあって、当初は政治犯を中心に収容していました。絶滅収容所と呼ばれる類の他の収容所に比べるとまだマシだったという話もありますが、それでも人が人に対してこんなにも残虐な行為が出来るものなのかと思うと深い戦慄を覚えました。見学者は、みんな無口で重苦しい空気を纏っていました。辛くても最後まで見学したのは、後世に生きるわたしたちが目をそらしてはいけないという思いからでした。

 

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

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ナチ強制収容所―その誕生から解放まで

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