時たま、旅人

自称世界遺産ハンターが行く!旅好き会社員の備忘録

新シナゴーグからの帰国トラブル

サン・スーシ庭園の美しい景色を目に焼き付けてベルリンを後にしようと思ったのですが、帰国日の朝にホテルから見えた朝焼けがあまりに美しすぎて、もう少しだけベルリンを散歩してみることにしました。f:id:greenbirdchuro:20190718133746j:image

 

今回の旅で一番足を運んだミッテ地区。シナゴーグはオラニエンブルグ通り沿いに建っていました。道路の幅があまり広くないので、建物全体を写真に収めることに苦労しましたが、道行く人に不審がられながらも地べたに這うようにしてなんとか撮影。周囲に出来た高層ビルに囲まれてはいるものの、独特のオーラをまとった煌びやかな建物はハッとするくらいの存在感を放っていました。f:id:greenbirdchuro:20190713145131j:plain

 

最大で3000名が収容できる広い礼拝所を備えたこのシナゴーグナチス以前のベルリンのユダヤ人社会の象徴でした。1866年の完成式典では宰相ビスマルクが出席したという事実は、当時のベルリンにユダヤ人社会が深く根付いていたことの証です。舞姫の中で言及こそされていないもののこの近くに下宿していた森鴎外も幾度となくこのシナゴーグを見上げたはず。共産主義主義政権下で長らく放置されていたこのシナゴーグがようやく再建されたのは冷戦終結後の1955年のことでした。f:id:greenbirdchuro:20190718135853j:image

 

シナゴーグ特有の玉ねぎ形のドームの高さは50m。太陽の光を浴びながら天を衝く姿がとても印象的です。ドームの頂にはダヴィデの星が輝いています。f:id:greenbirdchuro:20190713145138j:plain

 

ユダヤ人社会のシンボルだったこのシナゴーグも他のユダヤ関連施設同様に水晶の夜事件(クリスタルナイト)で激しく損壊しました。ナチスの宣伝相の演説に扇動されたナチスの党員たちが、シナゴーグユダヤ人の営む商店を破壊した上に多数のユダヤ人を虐殺した1938年11月9日のこの事件をユダヤ人迫害が一気に加速するきっかけになっています。残酷な現実とあまりにかけ離れたキレイな名前は、暴動によって破壊されたシナゴーグや商店のガラス片が路上に飛び散った様が、まるで輝く水晶のようだったから。その不謹慎さと悪趣味さに憤りを覚えます。現在の新シナゴーグは礼拝堂としての役目を終えて、ユダヤ資料館になっていました。内部を彩るアラベスク模様の装飾を見てみたかったのですが、ユダヤ教安息日と重なっていたようで、この日は中に入ることができませんでした。f:id:greenbirdchuro:20190713145145j:plainシナゴーグ付近に旧シナゴーグもありそうなものですが、手持ちの地図で探してもなかなか見当たりません。聖マリーエン教会の近くのハイデロイター小路に存在したはずのベルリン最古の旧シナゴーグは、爆撃で破壊されて今では跡形もありませんでした。

 

路上に埋め込まれたつまずきの石には、ホロコースト犠牲者の名前・生まれた年・死亡した場所などが刻まれていました。縦横高さ10cmのコンクリート表面に貼られた真鍮板の文字は、擦れて消えてしまわないように深く刻まれています。足を運ばなければ目にする機会の少ない大きな記念碑だけでは、日常生活の中に埋もれてしまう記憶を維持するために、ケルン在住の彫刻家グンター・デムニッヒが1993年に始めたプロジェクトです。f:id:greenbirdchuro:20190713145152j:plain設置されている場所がナチスの犠牲者が生前に暮した住居前の公道であるため、役所の許可が必要だったり、現在の住人に難色を示されたりしてスムーズにはいきませんでしたが、ベルリンからヨーロッパ全体に広がっていき、今では6万ヶ所以上に設置されているそうです。石1個につき95ユーロを支払うことで誰でもこのつまずきの石のスポンサーになることが出来ます。ただし、出資するだけで終わりではなくて、磨いたり掃除をしたりという石の管理責任も同時に発生するため、日本に暮らすわたしが名乗りをあげることは現実的には難しそうです。

 

ホロコーストを生き伸びたユダヤの人々は、なかなか元の生活に戻ることが出来ませんでした。長く共に暮らしてきた隣人たちが凶暴な「ナチ」に豹変して襲い掛かってきた上に、助けるどころか目を逸らされてしまったわけですから、当然と言えば当然です。現在のドイツに暮らすユダヤ人は、他の場所から仕事などで新たにやって来た人々なのだそうです。このシナゴーグ再建はそんなベルリンが歴史と向かい合う覚悟の表れとも言えます。

 

シナゴーグの近所にあるヘックマン・ヘーフェ(Heckmann Hoefe)。人に尋ねながらたどり着きました。中庭文化の発達したベルリンでは、迷い込んだ小道の先に地元の人が集まるカフェやショップに囲まれた広い中庭を発見することがあります。ただし、大通りから見えているわけではないので、探そうとしてもなかなか辿り着けません。このヘックマン・ヘーフェは広いわけでもお店が多いわけでもありませんが、落ち着いた雰囲気でとても居心地の良い場所です。ショップの1つボンボンマヘライで、ドイツの伝統製法で作られた自家製キャンディー作りを見学することもできました。f:id:greenbirdchuro:20190713145547j:plain

 

第2次世界大戦の激しい爆撃で壊滅状態となったベルリンは、その後の東西冷戦にもろに巻き込まれてしまいました。見事に復興を遂げたように見える現在のベルリンを少し注意深く観察してみると、街のあちこちに残る苦難や誤ちのしるしがベルリンの辿った道のりが容易なものではなかったことを示しています。筆舌に尽くしがたい苦難や取り返しのつかない誤ちの歴史と向かい合いながら、前を向くベルリンという偉大な街に少し触れることが出来た気がします。航空券が安かったからなんて安易な気持ちでやってきたけど、歴史も芸術も何もかもが濃厚な時間でした。

 

ベルリンはリピートあるな・・・とやり切った感で帰国便に搭乗しました。乗継便の出るアブダビまでは往路でお気に入りリストに入った今は無きLCCエア・ベルリンLCCのイメージを良い意味で裏切ってくれたエア・ベルリンでしたが、最後にやってくれましたよ

 

定刻になり、滑走路を加速し始めた飛行機が、エンジントラブルだとかで途中で失速し、滑走路の端で停止してしまいました。迎えにきたバスで搭乗ゲートに戻され、機材の点検を待つこと約1時間。問題なしとのアナウンスで再搭乗。再び加速した飛行機がフワリと離陸しそうになった瞬間にまたもや減速からの停止。再びバスのお迎えで搭乗ゲートに連れてこられた上にお菓子やお水を持たされてセキュリティゲートの外に出されてしまいました。パスポートに出国のハンコ貰ったのに空港の外にだされるという珍事にさすがに焦りを感じました。ブツブツと文句を言いながらも空港前の車両型カフェでカリーブルストの食べ納めができたのがせめてもの救い。f:id:greenbirdchuro:20190718220639j:plainf:id:greenbirdchuro:20190718152706j:image

 

そして待つこと数時間。機材変更の末に、3度目の正直でベルリンを飛行機が発った時には当初の出発時刻を6時間以上も過ぎていました。テーゲル空港がエア・ベルリンハブ空港出なかったら代替機材さえも無かったかもしれないと思うとゾッとしますが、アブダビエティハド航空の帰国便に接続出来なかったことは言うまでもありません。24時間後に出る後発便を待つために空港ホテルに1泊したので、1日余計に仕事を欠勤しなくてはならなくなったことも今となっては良い思い出です。f:id:greenbirdchuro:20190718220551j:plain

水晶の夜―ナチ第三帝国におけるユダヤ人迫害

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