ベルリンに残された東西分断の名残とアンペルマン
遡ること4年前、2015年5月のベルリン旅行記です。
ゴールデンウイークにも関わらず、6万円という破格の安さで航空券が売りに出ていたので飛びついてしまいました。円高バンザイ!の時代です。お気付きかと思いますが、わたしの旅先の8割は航空券の値段だけで決まっています。となると、それまで考えてもなかった場所に急に決まることが多く・・・ベルリンも例外ではありません。長らく東西を分断していた壁が壊される歴史的瞬間の映像を見たことがあるせいで知った場所だと思い込んでいましたが、よく考えたら社会の教科書に書いてあること以外の知識は皆無。慌てて本屋に走っては見たものの、地球の歩き方「ベルリンと北ドイツ」の初版本が出るよりもほんの少し早いタイミングで、他にベルリンのガイド本を出している出版社はありませんでした。やっとのことで探し当てたのは、地球の歩き方と同じ出版社が出しているGEM STONEシリーズの2013年版「ベルリンガイドブック」。これまで使ってきたガイド本とはなんだかテイストが違うし、発行年はちょっと古いけど、流行のものを見に行くわけではないので、今回の旅の指南役はこれに決定です。
格安航空券だった理由は、アブダビ経由で乗り継いだ航空会社がLCCのエア・ベルリンだったからのようでした。ビジネスクラスと同じくらいLCCを避けてきたわたしですが、エティハド航空とのコードシェア便だったのでLCCとは気がつかなかったようです。人生初のLCCエア・ベルリンの感想は、全くアリでした。シートピッチも狭くないし、美味しい機内食も出たし、レガシーの航空会社と比べてもそう遜色もありません。でも、それがたたったのでしょうか・・・その後すぐに破綻してしまいました。
エア・ベルリン機が着陸したのは、ベルリン・テーゲル空港でした。街の中心部近くに位置するテーゲル空港は、1948年のベルリン封鎖時にわずか49日で滑走路が建設されました。以降、東西冷戦の歴史と密接に絡んできましたが、ブランデンブルク国際空港が開港するのを待って2020年には閉鎖される予定になっています。
長らくベルリンの航空交通の要だったテーゲル空港なのに地下鉄や近郊列車が乗り入れておらず、アクセスは不便でした。市内へは路線バスを乗り継ぐしかありません。スーツケースもあることだし、ここはサクッとタクシーで向かいました。
宿泊先はポツダム広場から徒歩圏内、シャトレーゼマン通りとアンハルター通りの交差点近くにあるノボテル・ホテル。アブダビ空港での乗継時間に予約できました。
さっそく散策を開始します。
ホテルを出てすぐの交差点にアンハルター駅の遺構がありました。空爆で破壊され、建物というよりは崩れかかったレンガの壁といった感じですが、きっとレンガ造りのステキな駅舎だったんでしょう。ガイド本には書いてないものでしたが、周囲の近代的なビルとのギャップが戦争の爪痕という感じで痛々しく、とても印象的でした。
シュトレーゼマン通りをポツダム広場に向けて北上します。道路はとても広く、自転車専用レーンがあるので歩行者にとっても安全で歩きやすいです。
東西冷戦の遺構「壁の道」は、突然に現れました。ニーダーキルヒナー通りに沿ってベルリンの壁は約200mほど続いています。そこに残された壁には、穴が空き、生々しく鉄骨が剥き出しになっていました。当時はまだ子供だったので、現実なのか夢なのかわからないけどなんだか大変なことが起きていると感じながら映像を見ていました。壁の崩壊という歴史的な瞬間の映像が脳裏に蘇ってきます。それにしても東西を隔てていたのがこんな薄い壁だったなんて信じられません。それだけ東西の間にあった政治的・心理的壁が高く厚いものだったということなのでしょう。
壁に沿って無料の屋外展示場「テロのトポグラフィー」があります。この場所には、ナチス政権時のゲシュタポ(秘密国家警察)・SS(ナチス親衛隊)・SD(親衛隊情報部)の本部がありました。かつての建物は取り壊されてしまいましたが、後の発掘調査でゲシュタポ本部の地下牢が見つかっています。その一部が屋外展示場として公開されていて、平日の昼間だと言うのに多くの人が訪れていました。
加害者として歴史を振り返るのは決して容易なことではありません。このスペースの使い道については恐らく賛否両論があったと思いますが、いかにして恐怖政治のプロパガンダが国に浸透し、その結果として多くの人々が迫害されるに至ったのかを知る貴重な資料が展示されていました。内容もさることなが、展示されていた画像の膨大さに衝撃を受けました。民族性の違いなのか、日本では残酷な映像や画像の公開・展示を避ける傾向にあります。視覚に訴えるという方法は、思った以上に衝撃が強く、後世の人間にはリアルで残酷な現実を伝えるには効果的なのかもしれません。
壁の東側、テロのトポグラフィーの斜め前にベルリン市議会議事堂がありました。1899年にプロイセン衆議院とプロイセン州議会の議事堂として建てられた重厚感のある建物です。この建物にかつてナチス党本部が入っていたと知ると何とも複雑な気持ちにもなります。ナチスを思い起こさせる建物を市議事堂として利用する合理的な思考がドイツ人らしさでもありますけど。
ミッテ区の中心にあるポツダム広場に出ました。どうしても周囲を取り囲む高層ビルに目がいってしまうので、あまり広場という感じがしません。かつてこの場所には、ベルリン市を取り囲む城壁の関税門「ポツダム門」がありました。ポツダム門には近郊都市ポツダムを初めとする各地からの街道が集まっていたので、今でも広場というより大きな交差点という感じがします。
1838年に鉄道駅が設けられてからは、交通要所としても発展したポツダム広場でしたが、東西の境界線上に位置していたがために、ベルリンの壁構築とともに二つに分断されてしまいました。長らく容易に近づけない無人地帯でしたが、ベルリンの中心部に近いという魅力的な立地条件も手伝って、分断終結後からあっという間に再開発が進み、今では1日に7万人が訪れる街の中心地に返り咲いています。
この大きな交差点で初遭遇したのは「アンペルマン」です。とても有名なご当地キャラですが、アンペルマンは旧東ドイツの歩行者信号機で使われていた人形マーク。真似て写真を撮る観光客の多いこと・・・。青は、歩く人。
そして、赤は立ち止まる人。アンペルマンが東ベルリンに誕生したのは東西分断時代の1961年でした。次第に東ドイツ各地へ広がっていきましたが、ドイツ再統一に伴ってあわや撤去という事態に陥ります。でも、その頃には既にキャラが確立し、東ベルリンの人々に根付いていたので、「アンペルマンを救え」運動が展開され、撤去を免れることができました。ベルリン州の歩行者信号機として正式に認められた今では、ベルリンの信号機の80%以上が東ドイツ生まれのアンペルマンです。文具や日用品など600種のグッズが販売されているあたり、ご当地キャラの元祖といったところですね。
そして、エーベルト通りのミニスターガーデンがたくさんのプラスチック製アンペルマンで埋め尽くされていました!歩く人の姿なのに、ドイツの国旗になぞらえて、赤も黄色も黒も・・・。この時のドイツは統一25周年を控えて様々なアートプロジェクトが行われていました。東西ドイツの統一を記念するのに相応しいキャラクターですよね。
もう少しでブランデンブルク門というところにホロコースト記念碑がありました。ホロコースト記念碑の正式名称は、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」です。1万9073平方メートルの広大な敷地には、2711基のコンクリート製の石碑がグリッド状に整然と並んでいます。どの石碑も同じ厚みと横幅ですが、高さだけは様々。迫害を受けたユダヤ人達が老いも若きも関係なくホロコーストへ向かって行進する情景のようで、とても切なくやるせない気持ちになります。
ゴールはブランデンブルク門です。アテネの神殿の門を手本にプロイセン王国の凱旋門として1790年頃に建てられました。高さ26m・幅65.5m・奥行き11mの砂岩でできたドイツ古典主義建築の傑作といわれる立派な門がパリ広場の東を向いて建つ姿にはベルリンのシンボルに相応しい威厳があります。
門上に、勝利の女神ヴィクトリアと4頭立ての馬車カドリガの像があります。プロイセンを破ったナポレオンが戦利品としてパリに持ち帰ったこともありましたが、ほどなくしてベルリンに戻ってきました。
ベルリンの壁が崩壊して、一夜にしてブランデンブルグ門は分断の象徴からドイツ再統一の象徴になりました。建設されたフリードリッヒ・ヴィルムヘルム2世の時代から、ナポレオンによるベルリン陥落、ヒトラーの入城、敗戦、壁の建設と崩壊・・・この門はベルリンに起こった悲喜こもごもの全てを見てきたわけ歴史の生き証人なのです。
続きは、 沿道に歴史的建造物が並ぶウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)からスタートします。
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