ジャカルタ旧市街「コタ地区」と独立記念塔
ジョグジャカルタから1時間のフライトでジャカルタにやって来ました。ジョグジャカルタに比べると観光スポットはかなり少ないようですが、少し街を歩いてみます。
当時のジャカルタ市内にはまだ地下鉄網が出来ていませんでした。市民の足はもっぱらトランスジャカルタというバスです。ジョグジャカルタのトランスジョグジャが普通のバスなのに対して、こちらは大型バスよりもかなり高い位置にドアがついていて、駅のホームのように地面より高くなっている停留所から車内に乗り込みます。専用道は道路の中央にあるので、停留所は中央分離帯の上にあり、利用者は歩道橋を使って停留所に渡るという交通量の多いジャカルタならではのしくみになっていました。
まず向かったのはコタ地区です。ジャカルタの北一帯の海沿いに面したこのエリアは、いわゆる旧市街。ジャカルタで最初に発展した街で、古い都市を意味するコタ・トゥアが名前の由来になっています。
コタ地区に入るとランドマークとも言うべき立派な建物が見えてきました。かつてオランダ領東インドの中央銀行だったネオルネサンス様式の建物は2009年にインドネシア銀行博物館として生まれ変わっていました。
運営しているのは国の中央銀行であるインドネシア銀行です。館内の展示では植民地支配を受ける前の時代から現在にいたるまでのインドネシア経済に起こった出来事について学ぶことができるそうです。
ヨーロッパの国々が競って東南アジアに進出してきた16世紀の大航海時代にジャカルタを制圧したオランダ東インド会社はこの地をバタヴィアと改名しました。(1942年の改称まで300年以上もバタヴィアと呼ばれていました。)バタヴィア最初の街コタ・トゥアのさらに中心がファタヒラ広場です。何かの銅像や塔があるわけでもなくだだっ広い広場ですが、とにかく人が多い!色々なパフォーマーがいますが、ほとんどは何をしているのかわからないけどただいるだけの人々。そんな人々で広場が埋め尽くされています。広場の周囲には今でもオランダ統治下の名残を感じさせるバタヴィア建築の建物が並んでいます。これは、ジャカルタ歴史博物館ですね。
広場の北側に隣接(写真の左側)して建つのが、バタヴィア・カフェです。1800年代初頭に建築され、オランダ東インド会社のオフィスとし利用されていましたが、紆余曲折を経て、1993年にカフェとして生まれ変わりました。ジャカルタには少ないコロニアル様式の建物にはちょっと他とは違う味わいがあるように感じます。
側道からみるとバタヴィア・カフェのアンティークな雰囲気が数倍増しに見えます。夜の店内はジャズの生演奏も聞けるお洒落な雰囲気で、料理もなかなかのものだとか。接待やデートで使われることも多いジャカルタで最も有名なカフェです。それにしても、路上で店を開く露天商が多くて、賑やかというか、騒々しいというか・・・。カフェのハイソな雰囲気は周辺環境のせいでひきたっているのかもしれません。
かつてはオランダ風の石造りの街並みと張り巡らされた運河が美しい街で、「東洋の真珠」と呼ばれたこともあったそうですが、ヨーロッパ風の建物には熱帯の気候は厳しすぎたようで、廃墟と化しているもののチラホラありました。
ファタヒラ広場から出て運河沿いを歩いて行きます。
アムステルダムやハウステンボスで見たような跳ね橋が見えてきました。1938年以降、インドネシアに唯一残された跳ね橋だそうですが、寂れ具合を見るだけでかなり古いということと今は使用されていないということがわかります。
1628年に建設されたこの跳ね橋にはジュンバタン・コタ・インタンという絶対に覚えられなさそうな名前がついています。橋の結ぶ両サイドが英国砦とオランダ砦だったせいか、インドネシア独立まではもっとシンプルに英国跳ね橋(英国橋)と呼ばれていました。
跳ね橋は一応渡れましたが、川というより運河ですね。ジャカルタはごみの不法投棄も多く、どう贔屓目に見ても清潔とは言えません。ここはかなりキレイな方かな。
跳ね橋から北に向かって幹線道路をくぐりながら川沿いの道を進みます。廃倉庫が並ぶちょっと怪しげなエリアを抜けると物見櫓(ウォッチタワー)がありました。物見櫓は隣接した旧東インド会社のもので現在は海洋美術館になっていました。
コタ地区にはかつてのターミナル駅であるジャカルタ・コタ駅がありました。1870年の開業以降、ジャワ島内各地を結ぶ長距離列車のターミナル駅だったコタ駅は19世紀末まで南バタヴィア駅と呼ばれていました。1990年代後半くらいからターミナル機能をガンビル駅や他の駅に譲り、現在はジャカルタ近郊線の始発駅として利用されています。
オランダ領だった1926年に改装・再開業されたので、オランダ人総督の元で駅の設計を担当したのもオランダ人設計士でした。それゆえに、駅舎は現地風でもあり、ヨーロッパ風でもあります。
突然のスコールで雨宿りしている人も多くて、駅構内はとても混雑していました。スコールはしばらくあがりそうになかったので窓口でガンビル駅から出るバンドン行きの翌日の列車の切符を買っておくことにしました。
改札はタッチ式です。でも、通過不可の「✖」がついてるところが多すぎる・・・。
ホームは日本の私鉄のターミナル駅によくあるような櫛型構造になっていました。
コタ駅からジャカルタ首都圏通勤電車網(KRL)を利用します。実はこのKRLには日本で活躍した車両が第2の人生ならぬ第2の車生で大活躍しています。縁が始まったのは姉妹都市である東京が都営地下鉄6000形車両を無償譲渡してから。その後に海を越えてインドネシアに渡った車両は、旧国鉄・東急・東京メトロ・東葉高速鉄道・JR東日本の各社からと枚挙にいとまがありません。~系なんて言われても鉄子でもなんでもないわたしには違いがわからないのですが、マニアの方にはたまらない車両が見れるはずです。それにしてもインドネシアと日本は縁が深い・・・。それなのに高速鉄道導入で中国を選んだのか・・・。長年の友情もお金には勝てないのか・・・。
KRLで向かったのは、ムルデカ広場でした。18 世紀にオランダ東インド会社の「王の広場」として建設された広場の面積は、周囲の公園を含めると75ヘクタールもあります。インドネシアの植民地支配からの独立を契機にインドネシア語で「独立」を意味する現在の名称になりました。
ムルデカ広場を象徴は中心にそびえ立つ132mの国家独立記念塔(モナス)です。スカルノ大統領の発案で着工され、1975年に完成・一般公開されました。白い大理石の塔の頂部には金の炎のレリーフがあしらわれて全体がろうそくのような形をしています。「消える事のない火(アピ・ナン・タッ・クンジュン・パダム)」と呼ばれる炎のレリーフ部分だけでも高さ14m・直径6mの大きさです。独立に対する国民の強い思いが現れているだけあって、この炎は決して見掛け倒しの張りぼてではありません。14.5トンの青銅で出来ていて表面をめっきしている純金は35kgもの量です。塔と台座はインドネシアの伝統的な「臼と杵」、そしてヒンドゥー教における男女の象徴「リンガとヨニ」をイメージしたデザインになっています。なんでイスラム教じゃなくてヒンドゥー教?と思いますが、イスラム教が偶像崇拝を禁じているせいかもしれませんし、スカルノ大統領の母親がヒンドゥー教徒だったことも関係あるのかもしれません。塔の台座は縦45m×横45m・高さ17mで、モナスの地下にある国家歴史博物館は縦80m×横80m・天井の高さは8m。インドネシアの独立記念日である1945年8月17日にまつわる数字になっています。エレベーターを使えば炎のレリーフの下にある高さ115m地点にある展望台に登ることができ、広場の周囲の景色を楽しむことが出来るそうです。モナスの建造を発案したスカルノ初代大統領は完成を見ることが出来ませんでした。インドネシアの紙幣にもなっていて、アメリカならジョージ・ワシントン、日本なら伊藤博文といった方ですが、日本では彼の第3夫人だったデヴィ夫人の方が有名かもしれませんね。(スカルノ大統領がどんな方かは知りませんが、あの年齢で若者顔負けの体当たりロケをやっちゃうデヴィ夫人のことは尊敬しています。)
次はモスクを訪ねてみます。