時たま、旅人

自称世界遺産ハンターが行く!旅好き会社員の備忘録

インカ帝国の首都クスコ

2012年春、長く勤めていた勤務先の退職を決心したわたしは、溜まりに溜まった有休を消化するために旅行に出かけることにしました。時間があった学生時代はお金がなくて(度胸もガッツも足りなくて)、社会人になってからは時間がなくて、なかなか長期の旅行をする機会がありませんでした。特に往復を含めた移動に時間を取られる南米大陸への旅は避けてきたとも言えます。人生で初めて時間と資金の両方を手にしたわたしが選んだ悩んだ末に決めた行先はペルーでした。ペルーと聞くだけで、マチュピチュナスカという世界不思議発見に出てきそうな憧れの地名が浮かんできます。スズメの涙ほどの退職金は一瞬にしてなくなりましたが、思い出はプライスレスって言うじゃないか!と自分に言い聞かせながらアメリカン航空で成田空港を飛び立ちました。

 

当時のわたしは、南米上陸はおろかロサンゼルスより南に下ることも初めて。当然ながら南米資本の航空会社を利用することも初めてでした。ロサンゼルスから乗り継いだラン航空(現在のラタム航空)のスペイン語メインの機内アナウンスに異国情緒を感じたのもつかの間、一切の日本語が消えた機内エンターテインメントを前にこの長いフライトをどうやり過ごすか体も心もやり場をなくした頃、「急病人です!どなたかお医者様いらっしゃいませんか!?」という機内アナウンスが聞こえてきました。もちろん、スペイン語でしたが、言葉なんかわからなくてもその切羽詰まった雰囲気は察することはできました。数回のアナウンスの後にお医者さんらしいヒスパニック系の女性が何度か通路を行き来するのが見えました。お医者さんがいてよかった・・・と眠ろうとしたところに再度のアナウンスです。「急病人が出たので、ロサンゼルスに引き返します。」うそ〜ん、結構な時間飛んだのに!?かくして、わたしの乗った飛行機は数時間前に飛び立ったロサンゼルスに引き返して行ったのです。ロサンゼルスに到着した飛行機から先ほどの急病人が車椅子で運ばれていき、再びロサンゼルスを旅立った飛行機がペルーのリマのホルヘ・チャベス空港に到着したのは予定時間を8時間ほど過ぎた翌日の明け方でした。

 

予約していたホテルに向かいましたが、数時間後にはまた国内線に乗らないといけないため、眠るほどの時間は残されていませんでした。とりあえずシャワーを浴びて、ベッドでウダウダしていたらもう出発時刻。ついさっきまでいた空港に逆戻りしました。次便への振替も頭をよぎりましたが、天候に左右されやすい次の目的地へのフライトは、よく遅延・欠航する上に、有視界飛行なので早い時間の便しかないとのこと。初っ端からバテ気味ですが、マチュピチュのお膝元として知られるクスコに向けて予定どおりに出発です。f:id:greenbirdchuro:20190820233059j:plain


1時間30分ほどでクスコの市街地から4kmほど南に位置するアレハンドロ・ベラスコ・アステテ国際空港に到着しました。建物は近代的ですが、国内第2の都市にある国際空港の割には小規模です。標高3400mの空気の薄さが睡眠不足の疲れた体にこたえます。ここからは高山病との闘いになるので、迷わずタクシーでの楽ちん移動を選択。f:id:greenbirdchuro:20190820233105j:plainf:id:greenbirdchuro:20190820233218j:plain

 

ケチュア語で「へそ」を意味するクスコは、首都リマから南東に約570km離れたアンデス山脈に位置するペルー第2の都市です。マチュピチュのお膝元として知られるクスコがインカ帝国の首都として機能し始めのは、15世紀前半の9代皇帝パチャクティの時代でした。見事な石造りの神殿や宮殿が築かれたクスコは文字通りインカ帝国のへそ、世界の中心でした。しかし、16世紀にインカ帝国を滅ぼしたスペインからの侵略者達は、徹底的にクスコの街を破壊し、インカ時代の神殿や宮殿をカトリックの教会や修道院などに変えていってしまいました。クスコには優れた文明を築いたインカ帝国時代とスペイン征服後の建造物が多く残されており、2つの文化が混在した独特の町並みが1983年にユネスコの世界遺産に登録されています。

 

クスコの市街地の中心にあるアルマス広場から観光をスタートしました。広場の四方は歴史ある建築物に囲まれています。レストランや土産物屋、旅行代理店が軒を並べる赤屋根・白壁のバルコニー付きの2階建ての建物がいかにもコロニアル風といった雰囲気で、多くの観光客でにぎわっていました。広場中央にある噴水の中心には、インカ帝国第9代皇帝パチャクティの像が据えられていました。f:id:greenbirdchuro:20190821000921j:plain

 

第9代皇帝パチャクティは、政治・軍事に優れた賢王として知られています。彼が1471年に死亡した時点で、インカ帝国の勢力範囲は、南は現チリから北は現エクアドルまで、更に現在の国で言えばペルー、ボリビア、北アルゼンチンの大部分をも含んでいました。南米の文明的な範囲のほぼ全体を占めていると言えます。そのことからも彼は「アンデス山脈のナポレオン」とも呼ばれているとか。かつての首都の中心で自らが築いた帝国の変わり果てた姿を彼はどう思っているのでしょうか。f:id:greenbirdchuro:20190821000724j:plain

 

アルマス広場を囲む建物の中でひときわ目をひくのが2つのキリスト教会です。

 

まずは、広場の北東側に面して建つクスコ大聖堂(カテドラル)。1533年にクスコを征服したスペイン人達は、インカで信仰されていた宗教を徹底的に排除するために、ビラコチャ神殿があったこの場所にカトリック教会を建設することを決めました。1559年から始まったカテドラルの建設は、1654年の完成まで100年近くの歳月を要しています。長引く教会建築にありがちなことですが、当時のスペインで流行っていたゴシック・ルネッサンス様式を基本としながらも、アルマス広場に面したファサードにはバロック様式の影響が見られます。労働力となった多くのインカ人の影響と思われるインカの宗教的シンボルがチラ見えするのは、彼らの侵略者に対する反抗心の表れかもしれませんが、究極の折衷様式と言ったところでしょうか。右側にチラ見えしているのが、クスコ最古の教会であるエル・トリウンフォ教会(1536年築)、左側がヘスス・マリア教会です。

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ポトシ銀山の銀を300トンも使ったという主祭壇や長年のろうそくのすすで黒くなった「黒いキリスト像」、植民地時代の多数の美術・工芸品 etc…と見どころの多いカテドラルのようですが、残念ながら入場することができませんでした。今となっては、ご馳走としてインカコーンや天竺ネズミ(クイ)が描かれたマルコス・サパタ作の「最後の晩餐」を見てこなかったことが心残りです。最後の晩餐の部屋ってエルサレムで見たんですけど、そんなメニューはなかったはず。f:id:greenbirdchuro:20190821000707j:plain

 

広場の南東側に建つのは、第11代皇帝ワイナ・カパックのアマルカンチャ宮殿跡に建てられたラ・コンパニーア・デ・ヘヘス教会です。精巧なバロック様式の正面ファサードの外観はカテドラルにも劣らない立派な佇まいです。最初の教会が建てられたのは、カテドラルよりもだいぶ早い1571年でしたが、1650年の地震の後に再建されています。その頃には既に完成していたカテドラルより立派な建物を建てちゃ駄目というクスコの大司教の反対をイエズス会が無視したということのようです。f:id:greenbirdchuro:20190821000551j:plainf:id:greenbirdchuro:20190821000139j:plain

 

へヘス教会の横にあるアトゥンルミヨク通りを進みます。こんな細い通りに名前が付いていることにも交通量の多さ(ほとんど観光客)にもビックリしますが、通りの両側にある精巧な石垣がインカ帝国時代のものだとわかると納得がいきます。f:id:greenbirdchuro:20190821000711j:plain


なかでもインカの高い技術力を実感するのが、一見何の変哲もないように見えるこの「12角の石」。よく見ると、周囲の他の石に合わせて絶妙な形に切り出されていて、複雑な形をしていることが分かります。紙一枚も通さないといわれるほど隙間なく精密に造られた石垣に、インカの人々の技術力の高さを見ることができます。f:id:greenbirdchuro:20190821000720j:plain

 

次は、インカ帝国の中心の中心である太陽神殿(コリカンチャ)に向かいます。

 

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