ゲルニカの悲劇にみたバスクのプライド
ビルバオの旧市街にあるバスク鉄道駅にやってきました。旧市街にぴったりのレトロな駅舎です。ここからバスク鉄道で次なる目的地に向かいます。
バスク鉄道という名前からトロッコ列車的なレトロさを想像していたら、やってきたのは予想に反して今時の列車。ガステルガチェに行く時にも立ち寄ったベルメオに向かう途中に今回の目的地があります。
バスク鉄道45分の旅で到着したのはゲルニカ駅。駅がある辺りは街の中心地なんですが、長閑な田舎町という感じでこじんまりとした駅舎がぴったりの雰囲気。さらっとゲルニカと書きましたが、このワードに聞き覚えのある人も多いはず。真っ先に思い浮かぶのは、ソフィア王妃芸術センターに展示されている画家パブロ・ピカソの作品です。スペイン内戦中の1937年に描かれた有名な絵画で、ドイツ空軍によって史上初の無差別爆撃を受けたスペインのバスク州ビスカヤ県の地方都市ゲルニカがテーマになっています。・・・そうです!このゲルニカはあのゲルニカなんです!!2度もソフィア王妃芸術センターに見に行ったのに、恥ずかしながら今回までゲルニカが実存する町の名前だったとは思っていませんでした。
まず向かったのはかつてのバスク州議事堂です。ビスカヤ地方では中世の頃から各地の代表者が地元にあった樫の大の下に集まって話し合いながら自治を行ってきました。皆が集ったという樫の木があるのがここゲルニカ。故にゲルニカは自由と独立を象徴する街とされ、樫の木はゲルニカの木と呼ばれて、この議事堂とともにバスクの自治の象徴となってきました。
1800年代に建てられたこの議事堂は、無料公開されていて議場にも立ち入ることができます。樫の木の下で行われた集会はいつしかここに場所を移していました。議場の一番奥には議長席があり、壁には歴代議員の肖像画と宣誓文が掲げられていました。ただ、残念ながらあらゆる表記がバスク語なんですよね・・・。
議長席の後ろに掲げられている紋章はもちろんゲルニカの木。このビスカヤ県の紋章以外にも数多くの自治体の紋章にゲルニカの木が描かれているそうです。
議事堂のホールの天井のステンドグラスにもゲルニカの木の下で団結を誓い合うバスク民族を描かれていました。天井全体を占めるステンドグラスの大きさと鮮やかな色使いは圧巻です。
なんと、ゲルニカの木は言い伝えではなく実在するんです!14世紀に植えられた初代の樫の木(父親の木)はもう残っていません。1811年に植え替えられた2代目の木(古い木)は、議事堂の広場にある聖堂の中で保護されていました。集まって話し合いをしたリーダー達の姿が目に浮かぶようです。
1860年に植えられた3代目の樫の木(息子の木)は、ゲルニカ空爆を免れて2004年まで生き抜きました。町全体が瓦礫の山となるような空爆を受けたにも関わらず、議事堂とともに焼け残ったゲルニカの木・・・まさに奇跡だと思います。しかし、敵方はその奇跡を「ゲルニカ空爆は自作自演」という無理な主張にすり替えてきたそうですから、腹立たしさを通り過ぎて呆れてしまいます。
そして、議事堂の広場で1986年に植えられた4代目のゲルニカの木を見ることもできました。この場所でまた次世代にバスク人の自治の精神を受け継いでいくことでしょう。さらにバスク州はこのゲルニカの木のドングリから育てた子孫木を友好の証として他国のバスク人会や姉妹・提携都市などに贈呈しているそうで、なんか素敵な話ですね。
議事堂から市街中心部へ向かう途中には15世紀建造のサンタ・マリア教会が建っていました。薄く黄色味がかった壁を持つゴシックとルネッサンスの折衷様式の教会は、大きなファサードと3層に分かれた鐘楼が印象的です。ドイツ軍のゲルニカ空爆の際はこの鐘楼の鐘が警報代わりとなって町中に鳴り響いたそうです。ほとんどの建物が壊滅状態の中、この教会はバスク議事堂同様に戦火を生き抜きました。
バスク平和博物館では、ゲルニカの無差別爆撃の日の一般家庭の様子を体験することが出来ます。無差別爆撃が行われた当日は、運悪く市を開くために近隣の農民達がゲルニカに集まっていました。さらに、当時のヨーロッパには珍しく木造家屋が多かったことが火の手が廻りを早くし、街は廃墟と化してしまったのです。民家を模した室内で演出は照明とナレーションだけ(しかもスペイン語)ですが、悲しみ・怒り・やるせなさが一度に押し寄せて来ました。でも、なぜゲルニカだったのでしょうか?スペインを二分する内戦でバスク地方はフランコの率いる反乱軍に抵抗していました。バスクの人々は民族意識が高く、ゲルニカは自治の象徴であったため独裁の障害になると考えたんだと思います。また、反乱軍と協力関係にあったナチスドイツには、イギリス資本の鉱山が点在するバスクを攻撃することでイギリスに経済的打撃を与える目的もあったようです。スペイン国内では言論統制で抑え込んだこの大事件も、外国では詳細報道がされたので、パリにいたピカソに祖国の訃報が届いたんですね。
ピカソのゲルニカのレリーフは、ごく普通の街角に突然に現れます。公園などではないので油断してると通り過ぎてしまいそうです。ソフィア王妃芸術センターにある原版と全く同じサイズで作られています。レリーフではピカソの異常なまでのこだわりを表現するのは難しいのか、悲しみや怒りは十分に共感できるものの本物を見た時の心臓を掴まれるような苦しさを感じるまではありません。ただ、人通りは多くないので原版と違って真正面からじっくりと鑑賞することが出来ました。それに原版と違って記念写真を撮れますしね。さすがに笑顔での記念写真は心情的に難しいですけど。スペインで共和国軍と反乱軍の内戦が勃発していた当時、パリに在住していたはピカソは共和国政府からパリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画製作の依頼を受けました。当初は内戦とは無関係の壁画を制作する予定だったピカソでしたが、ゲルニカ爆撃を知り、怒りと悲しみに突き動かされ、パリ万博で展示する壁画の主題をゲルニカに変更したそうです。当初は抽象的すぎると批判されたこともあったようですが、(抽象性を批判するとはピカソの作品を知らんのか?と言いたくなりますが)世紀を代表する名画であることは間違いありません。
独裁政権をしいたフランコは、バスクの自治権を剥奪し、バスク語の使用を禁止してこの地方を弾圧してきました。ゲルニカでは議事堂や博物館の解説もスペイン語とバスク語だけ、ベルメオのバス停で出会ったおばあさんは他の言葉も話せるのにあえてバスク語で話し、バルでは人々が外国人のわたしにバスク語を教えようとする・・・小さな出来事の全てがバスクの文化を受け継いでいく意志の表れであり、バスクの人々はこうして悲惨な歴史を乗り越えて復興を遂げてきたのだと思います。
バスク鉄道でビルバオに戻り、ビルバオ最後のバル巡りをしました。まず1軒目。
2軒目は日本酒も揃えてある日本びいきの兄弟が経営するお店。
それぞれで頂いたピンチョス・・・
美食の街バスクにあって、その中心都市ビルバオは鉱業の街から生まれ変わった芸術の街でもありました。そして、悲惨な出来事を乗り越えて復興を遂げた自由と独立の街ゲルニカ。変わらない伝統とそれを守って来たバスクの人々のプライド、さらには向上心を持ちながら足るを知る姿を知るにつれ、着いてすぐにこの街を好きになった理由がわかった気がします。次に来る時はフランスからスペインのバスク地方一帯を周ってみたいものです。
- ジャンル: 本・雑誌・コミック > カレンダー・ポスター・パンフレット > ポスター(アート系)
- ショップ: アートオブポスター
- 価格: 2,310円