時たま、旅人

自称世界遺産ハンターが行く!旅好き会社員の備忘録

ムデハル様式の最高傑作アルカサル

スペイン王室の宮殿として現在も使用されているアルカサルの歴史は、西ゴート王国時代の教会跡地に総督府を築いた10世紀の後ウマイヤ朝時代にさかのぼります。カスティーリャ王国によって征服された13世紀以降も歴代の国王によって増改築が繰り返されてきました。特にイスラム文化に傾倒していたペドロ1世の治世に行われた増改築では、ムデハル様式の最高傑作と言われるまでの立派な宮殿に仕上がっています。15、16世紀に当代の国王によって増築されたゴシックやルネサンス様式の混在する宮殿や庭園等、アルカサルには見どころがたくさんあります。

 

毎日のように大行列ができると聞いていたので、朝一で向かいました。城壁はずっと前から見えているのに、なかなか門にたどり着きません。壁の向こうにあるはずなのに・・・。よじ登りたい衝動を抑えながら唯一の入場口ライオン門に急ぎました。f:id:greenbirdchuro:20190811191117j:plain

 

開場1時間前だというのにライオン門の前はすでに大行列です。不覚にも予約していなかったので当日購入組の長い列に並ぶことになりました。寒さを我慢できずに諦めて列を離れていく人々を見送りながら待つこと1時間半。やっと入場できた時には、カチカチと歯が音を立てるくらいに震え上がっていました。
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赤く塗られたライオン門の上部には、王冠を被ったライオンのタイル画が描かれています。イスラム教では偶像崇拝になりかねない動物も王冠もNGのはずですが、あくまでもイスラム風なのでそこはご愛嬌。ヨーロッパによくあるお城とは一線を画すエキゾチックな佇まいに期待が高まります。f:id:greenbirdchuro:20190814151333j:plain

 

ライオン門の先のよく手入れされたライオンの中庭からさらにイスラム時代の城壁をくぐると、そこには碁盤の目のような格子模様が描かれた狩猟の中庭が広がっていました。正面に建つペドロ1世宮殿は、残留イスラム教徒の建築様式とキリスト教建築様式が融合したスペインの特徴的な建築様式であるムデハル様式の立派な建物です。f:id:greenbirdchuro:20190811191207j:plain

 

宮殿の壁にはアラベスク模様の漆喰彫刻が何層にも施されています。これだけイスラム風だと、2階の青い模様がコーランの一節を書いたアラビア文字のようにも見えますが、そこは何故だかゴシック文字。「最高位、最高貴、最強なる征服者カスティーリアの王ドン・ペドロがこれら宮殿の建設を命じた」と書かれていました。自画自賛?f:id:greenbirdchuro:20190814151450j:plain

 

14世紀半ばにこの宮殿を建てたペドロ1世は、イスラムの衣装をまとい、宮中でのアラビア語の使用を義務づけるなど、イスラム文化にどっぷりと心酔していました。アルハンブラ宮殿のようなイスラム芸術に彩られた宮殿を造るために、スペイン各地からイスラム建築・装飾の職人を呼び寄せたほどの入れ込みようだったそうです。f:id:greenbirdchuro:20190811191321j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811191312j:plain

 

ペドロ1世宮殿に向かって右側にある建物には大理石の柱の上にアーチの載った回廊が廻らされています。回廊から建物内に入ると歴代王たちの肖像画などが飾られた細長い提督の間がありました。f:id:greenbirdchuro:20190814154126j:plain
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壁が赤とピンクのストライプに彩られた謁見の間に壁には、アレホ・フェルナンデスによる1530年頃の祭壇画が掲げられていました。「航海士の聖母」と題された祭壇画に描かれていたのは、アメリカ大陸への航海を見守る聖母マリアと聖人たちです。それにしても、天井が眩しすぎます。f:id:greenbirdchuro:20190814154215j:plain


2階にあるアスレホ(タイル)の展示室に続く階段の装飾が美しすぎて、全然先に進めません。f:id:greenbirdchuro:20190811191815j:plain

こんなところ、カスティーリャ王国の紋章(城とライオン)見つけ!f:id:greenbirdchuro:20190814155227j:plain

 

2階には宮殿で使用されているオリジナルのアスレホがたくさん展示されていました。古いタイルを保護するためか全体的に薄暗く調光されています。国際問題になるだろうけど、許されるなら1枚だけ剥がして持って帰って鍋敷きにしたい・・・。f:id:greenbirdchuro:20190811191942j:plainf:id:greenbirdchuro:20190814155643j:plainf:id:greenbirdchuro:20190814155830j:plain

どう見てもアートです。アスレホ(タイル)なんて呼んだら申し訳ない気がします。f:id:greenbirdchuro:20190811191946j:plain

 

アスレホにどっぷり浸かった後は、良く手入れされた王子の庭で一息。ちなみに、王子とは夭逝してしまったカトリック両王の唯一の息子であるファン王子のことです。
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王子の庭の横から、いよいよペドロ1世宮殿に足を踏み入れます。ペドロ1世宮殿では乙女の中庭を取り囲むように執務室やプライベートの居室といった特徴的な部屋がいくつも配置されています。

 

2階建ての回廊に囲まれ、中央の細長い池の周りに植栽がされた乙女の中庭は、アルハンブラ宮殿にある中庭を組み合わせたような景観をしています。全体はそれなりにまとまって見えますが、1階はアーチの上部に漆喰装飾が施された14世紀のムデハル様式、16世紀に増築された2階はイオニア式の大理石柱が並ぶルネサンス様式なので、ちぐはぐな感じは否めません。1階の漆喰装飾が素晴らしいだけに、手すりをつけた2階の安っぽさは残念な気がします。f:id:greenbirdchuro:20190811192600j:plain

 

宮殿の中で最も豪華な空間が大使の間です。床から天井まで隙間なく漆喰細工と彩色タイルによるモザイク装飾が施されています。こんな細かい仕事をするのは日本人だけじゃないんですね。f:id:greenbirdchuro:20190811192303j:plain

 

隣の部屋から見た馬蹄形3連アーチにはの上方にはちゃっかりカスティーリャ王国の紋章である城とライオンが刻まれています。f:id:greenbirdchuro:20190811192350j:plain

 

大使の間の眩いばかりの円形天井を見ると今まで見たものが一気に霞んでしまい、簡単には目が離せません。息をのむ美しさとはこういうことを言うんだと思います。この煌びやかで緻密な細工のドーム型の天井がヒマラヤ杉の木組みでできているというから驚きです。パソコンも3Dプリンターもない時代にどうやって?しかも良く見ると、木組みの真ん中あたりに紋章が描かれているという細かすぎる仕事ぶり!王に謁見するためにここで待たされた大使たちがその豪華さにビビらないわけがありません。f:id:greenbirdchuro:20190811192129j:plain

 

次は、王族のプライベートな空間だった人形の中庭へやってきました。中庭といってもガラス張りの吹き抜け天井になった小さな空間で、イスラム庭園に欠かせないはずの噴水も見当たりません。アーチ部分に施された透かし彫りの漆喰細工がとても繊細です。増築された上階部分には新しさがあるものの様式の変更がないのでそれほど違和感を感じません。ウォーリーを探せの比じゃないくらい難易度が高いですが、アーチの柱に彫られた人形の顔を見つけた人は幸せになれるとか、なれないとかf:id:greenbirdchuro:20190811192404j:plain

 

人形の中庭と同じく王のプライベート空間だった王子の間。ピンクと白の花びら模様の天井がかわいらしいですね。f:id:greenbirdchuro:20190811192552j:plain

 

フェリペ2世の天井の間。天井が見どころの部屋が多くて首が痛いです。f:id:greenbirdchuro:20190811192117j:plainf:id:greenbirdchuro:20190814162211j:plain

 

次に、アルフォンソ10世の宮殿(ゴシック宮殿)にやってきました。ペドロ1世の宮殿と対照的にこちらはごくごくシンプルなキリスト教式の宮殿です。ゴシック宮殿だけど、内装はバロック様式ですね。

 

宴会の間の壁には色鮮やかなアスレホ装飾が施され、上部にはタペストリーが展示されていました。白壁の天井に黄色いリブ・ヴォールトが映えています。ムデハル様式の宮殿を見た後には何を見てもシンプルに見えるというか、もっとできるはず!なんて思ってしまいます。f:id:greenbirdchuro:20190811192621j:plain

 

ペドロ1世宮殿には、イスラムでは御法度とされている動物や人物などのシンボリックなものがあくまでもさりげなく描かれていましたが、当然ながらこちらは堂々としたものです。黄色のリブ・ヴォールトとコーディネイトしたかのような明るい色彩で細密に描かれたアスレホにはまた違った魅力があります。f:id:greenbirdchuro:20190811192606j:plain

 

ゴシック宮殿の礼拝堂には、聖母マリアの祭壇画が掲げられています。f:id:greenbirdchuro:20190811192612j:plain

 

ゴシック宮殿内のタペストリーの間には、16世紀から18世紀にフランドル地方で作られた巨大なタペストリーが壁一面を覆い尽くすように展示されています。当時、現在のベルギー北部にあたるフランドル地方はスペイン王国の植民地でした。「カルロス5世のアフリカ遠征」の様子が描かれたものや大航海時代を物語るタペストリーの数々は見ごたえがありました。f:id:greenbirdchuro:20190811192901j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811192907j:plain

 

アルカサルの庭園の1画には、マリア・デ・パディージャの浴場があります。アーチ状の薄暗い通路の先にはヒンヤリした空気のなんとも幻想的な空間が広がっていました。マリアはペドロ1世の愛妾の名前です。愛する女性の名前をつけるなんてロマンチック!なんて騙されそうになりますが、愛人のためにフランスから迎えた正妃を幽閉したことや正妃亡き後にヌケヌケとその愛妾を王妃にしたことを知るとその鬼畜ぶりを苦々しく思います。世が世なら文春や新潮にたれ込まれワイドショーの餌食になること間違いなし!政略結婚だったとしても幽閉するなんて酷すぎますよね。f:id:greenbirdchuro:20190811192952j:plain

 

広大な庭園も見どころ満載ですが、7ヘクタールもあるので覚悟して時間をかけるか、見るところを絞るか割り切った方がよさそうです。宮殿から遠ざかる毎に時代が新しくなるらしいので、どうせなら歴史ある(近い)ところを中心に・・・と言い訳をしながら庭園を散策しました。庭園の様式もイスラム、ルネサンス、バロックと様々です。

 

マーキュリーの像が中央に置かれたマーキュリーの池は、回廊になったイスラム時代の城壁に囲まれています。建物から池の中に向かって水が滝のように勢いよく流れ落ちる様子は躍動感があります。ベルモンド・デ・レスタがデザインしたグロテスクのギャラリーは、古い城壁をフレスコ画で装飾したものです。f:id:greenbirdchuro:20190811192913j:plain

 

マーキュリーの池の奥には、17世紀に造られたダムセルの庭が広がっています。きっちりと剪定された幾何学模様の生垣とたくさんの椰子の木が特徴的です。f:id:greenbirdchuro:20190811192919j:plain

 

美しい宮殿と水をたたえた池、建物から滝のように流れ落ちる水、林立する椰子の木・・・細い回廊からの庭園の眺めは実に絵になります。f:id:greenbirdchuro:20190811192927j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811192935j:plain

内外にアスレホ装飾が施された白いパビリオンの奥にライオンのパビリオンとプールが見えています。f:id:greenbirdchuro:20190811192941j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811192947j:plain

庭園だけでも1日はかかりそうですが、このくらいで。

ペドロ1世の人となりについては思うところもありますが、ムデハル様式の素晴らしい宮殿を後世に残してくれたことには感謝しています。ペドロ1世を描いた漫画があるようなので、いつか読んでみようと思っています。↓↓

 

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セビリア大聖堂とヒラルダの塔

トリウンフォ(勝利)広場の北側には、ゴシックとルネサンスの建築様式が混合した壮大なセビリア大聖堂(カテドラル)が建っています。「後世の人に正気の沙汰ではないと思われるような大聖堂を建てよう」というキリスト教会らしからぬ発想のもと、15世紀から約120年もの歳月をかけて建造されました。世界でもヴァチカンのサンピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次ぐ規模で、当然ながらスペイン最大規模です。レコンキスタ以前に建っていた巨大なモスクの跡に建てられたものなので、長い身廊と翼廊による十字型をした一般的な大聖堂と違って、奥行116m・幅76mという幅広の長方形をしています。もちろん、大きすぎて地上からはわかりません。f:id:greenbirdchuro:20190814235205j:plain

 

コルドバのメスキータほど丸見えではありませんが、良く見るとモスクの名残を見つけることができます。この大聖堂のシンボルとも言える高さ98mのヒラルダの塔でさえ、かつてのモスクのミナレットを転用したものです。f:id:greenbirdchuro:20190815222838j:plain


トリウンフォ広場に面した南側のサン・クリストバルの扉から大聖堂に入場します。ゴシック様式の門の前で迎えてくれたのは、人々からヒラルディーヨと呼ばれる巨匠バルトロメ作の「信仰の勝利像」。右手に盾・左手に椰子の葉を持った女神像で、同じものがヒラルダの塔の頂から街を見守っています。f:id:greenbirdchuro:20190815222557j:plain

 

高い天井と奥行のある空間の身廊を大きく占める内陣と聖歌隊席、身廊の南北にそれぞれ2列ずつある側廊と壁に沿って並ぶ礼拝堂や聖具室の数々・・・長方形の聖堂内が思ったより複雑で初っ端から方向感覚を失いかけています。f:id:greenbirdchuro:20190815224550j:plain

 

聖堂に入ってすぐのところにあったコロンブスの墓。棺を担いでいる4人の人物は、恐れ多くも当時のスペインを構成していたレオン・カスティーリャ・ナバーラ・アラゴン王国の4人の王。コロンブスがどれほどの英雄だったかがうかがえますね。f:id:greenbirdchuro:20190815223234j:plain前列右側の王の槍先には球状の何かが突き刺さっていますが、これはスペイン語グラナダを表すザクロの実グラナダからイスラム勢力を追いやったレコンキスタの成功を意味しているんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190815223021j:plain

 

コロンブスの墓のすぐ後方にある聖杯の礼拝堂の祭壇には、キリストの磔刑がありました。木の神と呼ばれた名匠マルティネス・モンタニェスによるの作品だけあって肉の削げた体のラインがなんともリアルです。f:id:greenbirdchuro:20190815231616j:plain

 

聖杯の礼拝堂の奥には聖杯室があります。聖杯室の正面にはセビリア出身の画家フランシスコ・デ・ゴヤ聖フスタと聖ルフィナが飾られていました。2人は姉妹で、ローマ司祭に命じられた異教礼拝のための供物制作を拒んだため殉教した3世紀の陶工職人です。16世紀の大地震で倒れかかったヒラルダの塔を救ったという伝承から二人の後ろにはヒラルダの塔が描かれています。救った?とりあえずここはスルーで。f:id:greenbirdchuro:20190815233453j:plain

 

 

 

さらにその奥にあった大きな聖具室の美しい漆喰装飾が施された真っ白な壁には、ぐるりと一面に芸術作品が展示され、美術館さながらの豪華な空間になっていました。f:id:greenbirdchuro:20190815225347j:plain正面に掲げられた十字架降架は、ペドロ・デ・カンパーニャの作品です。f:id:greenbirdchuro:20190815224811j:plain向かって右手には、無原罪のお宿りの彫像があります。マリアの足元を囲む小天使(の頭)という無原罪のお宿りとしてはよくある構図ですが、首にしか見えません。「十字架降下」と同じ木の神マルティネス・モンタニェスの作品なのに・・・。
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左側には聖フェルディナンド3世像。1248年にレコンキスタセビリアを奪還したカスティーリャ王国の王様ですが、ちょっと神経質そうな容貌ですね。f:id:greenbirdchuro:20190815231818j:plain

 

 建物の南東にある楕円形の部屋が参事会室です。浮き彫りの美しい装飾が施されたクーポラの一番目立つ場所に、17世紀スペイン絵画の黄金期を代表する画家バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作の無原罪のお宿りが飾られています。天窓やステンドクラスを通して、差し込む自然光がプラテレスコ様式の見事なクーポラを神々しく照らしていました。f:id:greenbirdchuro:20190815225353j:plain

 

改修中だった王室礼拝堂の隣にあるサン・ペドロ礼拝堂には、スルバランが描いた祭壇衝立がありました。中央上部に描かれた無原罪のお宿りの聖母が穏やかな表情をしています。しかし!木の神様の彫像を見て以来、これまで見てきた多くの無原罪のお宿りで一度も気にならなかったのに、足元の小天使の生首がわたしのハートを鷲掴みしています。無原罪のお宿りを見る度に探してしまう・・・。f:id:greenbirdchuro:20190815225412j:plain

 

コロンブスの墓の反対側の身廊中央には円形のステンドグラスがはめ込まれ、巨大な王冠や聖母マリア像、聖人イシドロ像などが配された豪華な銀の祭壇がありました。f:id:greenbirdchuro:20190816123649j:plain

 

銀の祭壇に向かって右側に、鉄柵に囲まれた内陣の中に光輝く黄金の祭壇衝立(レタベル)がありました。高さ20m・幅13mもの大きな飾り壁の煌びやかさたるや柵のこちら側の遠目からでも目がくらみそうに輝きを放っています。f:id:greenbirdchuro:20190815224724j:plain

 柵の隙間からなんとか全景を撮影することができました。中央祭壇に飾られたこの大聖堂の守護聖人である銀の聖母マリアも霞むほどに輝く衝立は、16世紀初頭最高の職人と言われたハエンのバルトロメス父子らの手による仕切り格子の間に、キリストやマリアの生涯など聖書の45場面が繊細な彫刻が施されていました。煌びやかな上に細か過ぎて、中央の聖母被昇天くらいしかわかりません。構想から完成までに80年もの月日を要した超大作の黄金衝立に用いられた金銀は、コロンブスが発見した新大陸で発掘されたものだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190815224752j:plain

 

黄金衝立のある内陣の向かいには聖歌隊がありました。中央奥に飾られたキリストとマリアの絵画の間には司教席があります。マホガニー材でできた117席の椅子の背壁に施された細かな浮遊彫刻がなんとも見事です。f:id:greenbirdchuro:20190815224716j:plain

聖歌隊席の左右には7500本ものパイプを持つ巨大なパイプオルガンが設置されていました。もはや、楽器というより建築物のスケールです。f:id:greenbirdchuro:20190815224707j:plain

 

聖堂の交差廊の天井には複雑なリブが施されていました。美しいけど埃が詰まりそうな細かさ・・・。松井棒みたいなもので掃除するんだろうか・・・なんて。f:id:greenbirdchuro:20190816131636j:plain

 

北西の角にあるサン・アントニオ礼拝堂に展示された宗教画の中でも見逃せないのが、ムリーリョのサン・アトニオ・デ・パドヴァの幻想です。絵の右下を良く見ると、跪くサン・アントニオを囲むように四角の切跡があるのがわかります。この部分だけが切りとられるという奇妙な盗難事故が起きたのは19世紀でしたが、翌年にニューヨークで発見されて無事に修復されています。お手頃サイズの絵もムリーリョの絵も他にあるというのに、どうしても欲しかったのか?意味不明です。f:id:greenbirdchuro:20190815224654j:plain

 

大聖堂の北東の角からは、ヒラルダの塔に登ってみます。鐘楼と言えば細い階段をこまねずみのようにクルクルと登らされるイメージがありますが、モスクのミナレットを改修したこの塔の中は、騎馬で登れるように設計された当時のままのなだらかなスロープになってました。ありがたいことです。70mの高さの展望台からは、セビリアの雲ひとつない抜けるような青空と美しい街並みが一望でき、なんとも爽快です。f:id:greenbirdchuro:20190816152314j:plain

大聖堂の南側には正方形に近い形をしたインディアス古文書館が見えています。f:id:greenbirdchuro:20190816152247j:plain

トリウンフォ広場を挟んだ大聖堂の向かいには、ここまでムデハル様式がプンプン香ってきそうなアルカサルの宮殿と広大な庭園が見えています。待ってろよ、アルカサル!f:id:greenbirdchuro:20190816154801j:plain

西側のグアダルキビル川の手前には、19世紀半ばまで120年の年月をかけて建てられたエストランサ闘牛場があります。川の向こう岸にひときわ目立つ高層タワーは再開発の進むトリアナ地区のようです。勝手な言い分ですが、景観が崩れるような再開発にならなければいいな・・・。すぐ下には、ゴシック様式らしい聖堂の屋根とイスラムの影響を受けたオレンジの中庭が見えています。f:id:greenbirdchuro:20190816153742j:plain

1764年に設置された鐘は、今でも現役で時を告げ続けるスペイン最古の時計です。f:id:greenbirdchuro:20190816155127j:plain


聖堂北側にあるオレンジの中庭には、その名の通りはオレンジの木が生い茂っていました。大聖堂の北側にあたる正面には、ゴシック様式らしい重厚な装飾の受胎の門があります。イスラムテイストの中庭とのミスマッチがなんとも言えません。f:id:greenbirdchuro:20190816152412j:plain


オレンジの中庭から聖堂を見上げてみるとさっき登ったヒラルダの塔が美しく見えています。アラベスク模様が施された外壁や二連アーチ窓からうかがえるように鐘の並ぶ四角柱の部分までがイスラム支配時代に造られたミナレットで、その上にルネサンス様式のキリスト教の鐘楼が継ぎ足されています。塔の頂にあるブロンズのヒラルディーヨは風見鶏になっているんだとか。ここにきて風見鶏にする必要ありますかね?f:id:greenbirdchuro:20190816152419j:plain

 

世界遺産に登録され、こうして後世に価値を認められていますから、「後世の人に正気の沙汰ではないと思われるような大聖堂を建てよう」というキリスト教会らしからぬ思惑は、それなりに上手くいったというところでしょうか。

セビリア観光は続きます。

 

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大航海時代に栄えた世界遺産の街セビリア

またまた早起きしてコルドバ駅からスペイン国鉄の旅です。旅というのも大袈裟で、セビリアのサンタ・フスタ駅まではたった45分。目的地セビリアは、70万人が暮らすスペイン第4位の都市にしてアンダルシア州の州都です。レコンキスタ前後の2つの文化が融合した建築群や複数の世界遺産のある見所満載の都市です。f:id:greenbirdchuro:20190814235347j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811190944j:plain

 

駅から南西に歩いて突き当たったルイス・モントト通りという大通りの中央分離帯には紀元前1世紀頃に建設されたローマ水道の一部カニョス・デ・カルモナが残されていました。セビリアから15km離れたアルカラ・デ・グアダイラから運ばれた水はアルカサルの大きな貯水池を満たし、各地に配水されていたそうです。修復・増築を繰り返しながら1912年まで稼働していたというから驚きです。f:id:greenbirdchuro:20190811191017j:plain

 

メネンデス・ペラヨ通りに沿うような細長い形のムリージョ庭園の中には、1929年のイベロ・アメリカ万博のために設計されたコロンブスの記念塔が建っていました。1492年、スペイン王室と契約を交わしたコロンブスが、新大陸を求めてサンタ・マリア号で船出したのはここセビリアの港でした。塔の中程にはアメリカ大陸に舳先を向けたサンタ・マリア号が配されています。f:id:greenbirdchuro:20190814234704j:plain

 

市の中心部を南に向かうと、かつてサン・テルモ宮殿の庭園の一部だった広大なマリア・ルイサ公園の中に、直径200mの半円形をした総面積50,000㎡の広大なスペイン広場(エスパニャ広場)が見えてきました。雲ひとつないセビリアの青空に幾何学模様にデザインされた鮮やかな敷石と煉瓦色の建物がとても映えています。数あるスペイン広場の中でこれほど美しいものがあったでしょうか?f:id:greenbirdchuro:20190814233959j:plain

 

旧市街の大聖堂との間を行き来する馬車の雰囲気もスペイン広場にぴったりです。値段交渉が面倒で敬遠してしまいがちな観光用馬車ですが、厳しく管理された揉め事とは無縁のセビリアの観光馬車は安心して楽しめるそうですよ。f:id:greenbirdchuro:20190815200215j:plain

 

スペイン広場は、イベリア半島スペイン語圏の国々との交流を目的に1929年に開かれたイベロ・アメリカ博覧会の会場として造られたものでした。南北両端にそれぞれ高い塔を伴った長い回廊のあるムデハル様式の建物は、セビリア出身の有名建築家アニバル・ゴンサレスによって設計されたスペイン館です。半円は中南米の方角を向いており、両手を広げて中南米の国々を迎え入れます!というスペイン側のメッセージが込められたものになっています。f:id:greenbirdchuro:20190814234209j:plain

 

広場の真ん中にある噴水からは勢いよく水が噴き上げ、その周囲には運河のような水路が巡らされています。パティオなんてかわいらしい規模ではありませんが、噴水と水路の組み合わせはイスラム庭園のイメージそのものです。全長515mの運河の中ではボートを漕ぎながらのんびり行き来する人々の姿が見られました。f:id:greenbirdchuro:20190814234333j:plainf:id:greenbirdchuro:20190814233903j:plain

 

運河にかかる4本の橋の欄干は、色タイルで鮮やかに装飾されています。映画「スターウォーズクローンの攻撃(エピソード2)」アナキン・スカイウォーカーとアミダラ王女が歩いた回廊や橋の舞台となった場所です。惑星ナブーはこんなところだったのか!思いがけない聖地巡りになりました。f:id:greenbirdchuro:20190814234053j:plain

 

 建物の一部はアンダルシア州政府のオフィスとして利用されていますが、ムデハル様式の装飾が施された建物の内部に入ることもできます。映画「アラビアのロレンスの中では、イギリス軍の駐屯するホテルとして撮影に使われていますが、ムデハル様式のおかげエジプトのカイロという設定にもあまり違和感は感じません。f:id:greenbirdchuro:20190815184209j:plainf:id:greenbirdchuro:20190814234417j:plain

 

半円に広がった回廊の壁面に設置された58か所のベンチには、カナリア諸島やバレアス諸島を含むスペイン各県の紋章とそこを象徴する歴史的な出来事・地図が描かれたタイル画がはめ込まれていました。f:id:greenbirdchuro:20190819191444j:image

 

せっかくなのでセビリアベンチに座りたいと思ったのですが、端から端まで探しても見つかりません。後で知ったことですが、セビリアだけはもともとブースがないんだとか。その代わり、一角にセビリア旧市街地図セビリア県の農業地図のタイル画を見つけました。f:id:greenbirdchuro:20190815194848j:plainf:id:greenbirdchuro:20190815194922j:plain

 

旅の序盤で滞在したマラガのタイル画にはヒブラルファロ城が描かれています。f:id:greenbirdchuro:20190815080718j:image

スペインの主要都市でわたしが唯一訪れていないバルセロナ。待ってろよ!f:id:greenbirdchuro:20190815193539j:plain

紋章が切れちゃっているけど世界遺産の古都トレドf:id:greenbirdchuro:20190815193947j:plain

タイルがだいぶ傷んじゃっていますが、サンタンデルf:id:greenbirdchuro:20190815195824j:plain


トラムの走るサン・フェルナンド通りを歩いて世界遺産の集まった旧市街の中心部を目指します。f:id:greenbirdchuro:20190814235010j:plain

 

通り沿いに、石造りの立派な門柱がなんともグッとくる歴史ありげな建物を見つけました。地図ではセビリア大学ですが、掲げられたタイル看板には王立タバコ工場と書かれています。もしかして?オペラ「カルメン」の冒頭に出てくるあのタバコ工場!!ドン・ホセが女職工として働いていたロマ人のカルメンと出会い、その後のジェットコースターのような(ほとんど下り坂)人生のきっかけとなるあの場所です。f:id:greenbirdchuro:20190815210549j:plainf:id:greenbirdchuro:20190814233717j:plain

タバコ工場が建設されたのは1771年。王立というだけあって、石造りの建物がとても立派です。わたしが訪れた時は門扉が閉じられていましたが、数十年来セビリア大学のキャンパスとして利用されているので、門さえ開いていればは出入り自由なんだとか。こんな歴史的建造物で送るキャンパスライフ、羨ましいような羨ましくないような。f:id:greenbirdchuro:20190814233751j:plain

歌劇《カルメン》

歌劇《カルメン》

 

 

サン・フェルナンド通りの先にある何叉路にもなったプエルタ・デ・ヘレスという広場の中心にはヒスパリスの噴水がありました。かつてへレスという城壁で囲まれていたのが広場の名前の由来です。ここもまだまだクリスマスムードですね。f:id:greenbirdchuro:20190814234656j:plain

 

グアダルキビル川沿いには黄金の塔と呼ばれる高さ36m・幅15mのどっしりとした石造りの塔が建っています。グアダルキビル川からの侵入者を見張るための要塞としてムーア人が建設したものです。当初は外壁に金色のタイルが貼られてので、その姿が川面に映るとそれこそ黄金色にキラキラと光って見えたそうです。f:id:greenbirdchuro:20190814234621j:plain

 

黄金の塔を構成する3つの部分のうち、ドッシリとした12角形の土台部分は、1221年に完成しました。土台の上に乗った細い12角形の塔は14世紀に造られたもので、黄金の塔のシンボルとも言える一番上の円柱と黄金ドームが追加されたのは1760年のことでした。1992年のセビリア万博開催で、黄金の塔はリスボンの「ベレンの塔」と姉妹協定を結んでいます。現在は海洋博物館および展望台として公開されています。f:id:greenbirdchuro:20190814234546j:plain

 

いよいよ、セビリア観光のメインエリアに入っていきます。

 

大聖堂とアルカサルの間に建つインディアス古文書館は、証券取引所として1572年に建てられたものです。1784年にカルロス3世の命で新大陸発見に関する文書をまとめる古文書館に生まれ変わりました。膨大な所蔵史料の価値もさることながら、ファン・デ・エレータによるルネサンス様式の建物は、大聖堂やアルカサルと並ぶ世界遺産です。価値ある希少な施設だというのに(しかも無料)、2大スターに挟まれていると霞んでしまうのか、全く行列もできていません。ミーハーなわたしも2大スターに集中するあまり、外観だけでスルーしてしまいましたが、もうちょっと時間があれば行ってみたかったな・・・。f:id:greenbirdchuro:20190814234943j:plain

 

大聖堂・アルカサル・古文書館の3つの世界遺産に囲まれたトリウンフォ広場(勝利広場)は、3つの施設を出入りする観光客でとても混雑していました。真ん中には純白のマリア像を頂いた無原罪の祈りの塔が建っています。f:id:greenbirdchuro:20190811191027j:plain

 

さて、いよいよ本丸に突入です。

コルドバ歴史地区 後編(メスキータからローマ橋)

メスキータ最大の見所の1つは、アルハカーム2世の命で作られた豪華なミフラーブです。金色や青色のモザイク装飾が施された馬蹄型アーチの周囲にはぐるりとコーランの一節が刻まれています。モザイクでできているとは信じ難いような美しく緻密な装飾は、どれほど眺めていても飽きることがありません。世界中のイスラム教徒はサウジアラビアのメッカにあるカアバ神殿の方向に向かって1日5回の礼拝を行いますが、その方角(キブラ)を示すのが、モスクの壁に作られたミフラーブという聖なる窪みです。偶像崇拝を禁じられたイスラム教では方向を示す目印にも像や絵画といったシンボルになりかねないものを用いることができません。草花や幾何学模様の美しいモチーフが用いられることが多いミフラーブは、イスラム美術の数少ない見せどころとなっています。その証拠に、カリフはこのミフラーブのためにビザンチンスタイルのモザイク職人を呼び寄せたそうですから。f:id:greenbirdchuro:20190811221219j:plain

 

ミフラーブの前のマスクラと呼ばれるスペースはミフラーブを強調する目的で造られています。高さのある八角形のドーム型天井には、ミフラーブと同じように草花の装飾やコーランの美しいビザンチン装飾が隙間なくびっしりと施されています。天井部分の貝殻のような構造は、ミフラーブの前で礼拝を先導するイマームの声が後ろの方まで届くように音響効果を考慮して設計されているそうです。この高い天井には明かり取りの役割もあるようで、窓から差し込む自然光がマスクラを淡く照らしていました。(ほぼ)無神論者のわたしでも跪いて祈りたくなる神秘的な空間です。f:id:greenbirdchuro:20190811214535j:plain


ミフラーブの隣にあるテレサ礼拝堂は聖具室(宝物室)として利用されていました。まず目をひくのは、中央に展示された金銀煌びやかな聖体顕示台です。毎年6月に行われる聖体祭で担がれるものだそうです。八角形の部屋の壁には聖テレサを含む聖人が描かれた絵画や宗教画が飾られていました。1つ1つが祭壇に据えられていてもおかしくないシンボル性のある美術品で、それらが並ぶ豪華な雰囲気はいかにもカトリックという感じがします。f:id:greenbirdchuro:20190811215131j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811214841j:plain

 

柵で仕切られていたので中には入れませんでしたが、メスキータの東端角にはサグラリオ小教区教会がありました。壁一面には隙間なくフレスコ画が描かれていますが、よく見るとモスクの2重アーチを塗り直しているのは明らかです。美しいか美しくないかと問われれば美しい部類に入りますが、包装紙の模様のような派手な装飾は「ちょっとやりすぎ」な気がします。f:id:greenbirdchuro:20190811212039j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811212058j:plain

 

中央礼拝堂(マヨール礼拝堂)は、メスキータのちょうど中心付近にあります。メスキータの礼拝空間の中央に巨大なキリスト教のカテドラルを建てる計画を打ち出した大司教マンリケは、王室代理官から「破壊しようとしているものは2度と同じような熱意と完璧さで造ることの出来ないものである」と通告を受けます。メスキータの歴史的・芸術的価値を理解していたコルドバ市民も取り壊しに猛反対しました。しかし、諦めきれないマンリケは王室代理官を破門した上で当時の国王カルロス1世から工事の許可を取り付けるという裏技を使いました。f:id:greenbirdchuro:20190811211409j:plain 

16世紀に着工した工事は何回も中断を余儀なくされ、完成まで250年もの月日を要しました。立派な祭壇のある豪華絢爛な礼拝堂やパイプオルガンを備えた重厚感ある聖歌隊席の建造には非常に長い年月が掛かったために、その建築様式はゴシック・ルネサンスバロックが混在したものになっています。礼拝の間にもともと1056本もあった2重アーチの円柱もカテドラルを建立のために取り壊されてしまい、現在は850本になってしまっています。

 

建物や装飾を保護するために敢えて薄暗くしてあるメスキータと違って、明かり取りの窓が多く設けられたカテドラルのスペースには豊富な自然光が差し込んでいて、同じ建物の中とは思えないくらい明るい雰囲気です。コルドバ近郊で採掘してされた紅大理石の使われた大祭壇には、中央上部に掲げられた聖母被昇天を初めとするバロックの巨匠パロミーノの絵画が飾られています。ゴシックからルネッサンスの過渡期に製作された内陣の天井はレース編みのような細かな装飾が施されていました。f:id:greenbirdchuro:20190811211421j:plain

 

漆喰でできた中央礼拝堂の天蓋は、イタリアの影響を受けたバロック様式です。楕円形の天蓋の淵にそって明り取りの窓が付いています。f:id:greenbirdchuro:20190811212528j:plain

 

中央礼拝堂の向かい側には聖歌隊がありました。繊細な彫刻が施されたマホガニー材の椅子にぐるりと囲まれた荘厳な空間の中央にもまた立派な彫刻が施された司教席があります。白い壁に金をあしらった天井や壁の細かな装飾がとても上品です。f:id:greenbirdchuro:20190811215430j:plain

 

外陣にあたる聖歌隊席の天井の漆喰装飾の中には聖人像が施されています。f:id:greenbirdchuro:20190811223213j:plain

 

聖歌隊席の左右に設置された大きなパイプオルガンもカテドラルの名にふさわしい重厚感のあるものでした。f:id:greenbirdchuro:20190811211428j:plain

 

1526年にコルドバを訪れて、初めてメスキータを見たカルロス1世は「メスキータがこのようなものだと知っていればカテドラルの建築許可を出さなかっただろう。カテドラルはどこにでも造れるが、壊してしまったメスキータは世界にふたつとないものだ。」とメスキータを見もせずに安易に取り壊し許可を出したことを悔いた発言を残したそうです。

 

長い年月をかけて建築したカテドラルが立派なのは当然のことですが、どこにでもあると言われれば確かにヨーロッパのどこかにはありそうな感じがします。歴史的価値の高いモスクの中にあえて凡庸な(?)カテドラルを建立する必要があったのか?という疑問を抱いたのは、カルロス1世だけだったとは思えません。結果として「モスクの中にあるキリスト教会」という世界で類を見ない特異な空間が出来上がり、メスキータにはまた違った歴史的価値が生まれることになったのです。1984年には世界遺産登録されたことで少しは報われたのではないでしょうか。

 

メスキータを出て、グアダルキビル川に向かってトリホス通りを歩くとトリウンフォ広場の西側にバロック様式の台座の上にそびえる聖ラファエルの勝利塔が見えてきました。中世に流行したペストで命を落とした人々への慰霊のためにフランス人彫刻家ミゲル・ベルディギエルが1765年から16年をかけて建造したものです。どうやら打ち勝った相手とはペストのことだったようです。f:id:greenbirdchuro:20190811184036j:plain

 

トリウンフォ(勝利)広場の真ん中にはプエンテ門がそびえていました。ローマ時代には「ローマ門」、ムーア時代には「イスラムの門」があった由緒ある場所で、イスラム支配下時代には城壁の一部でした。外観にイスラム建築らしさが感じられませんが、これは1571年に、フェリペ2世の命でルネッサンス様式の凱旋門に改築されたためです。門の向こうにはグアダルキビル川の対岸に続くローマ橋が見えています。f:id:greenbirdchuro:20190811183521j:plain

 

ローマ橋側から見たプエンテ門です。かつての城壁の面影は全くありませんが、ドリス式の円柱がとても太く、コンパクトながらがっしりとした造りになっています。上部には戦士を象った美しいレリーフが施されています。プエンテ門の後方に見えるアーチ・バルコニーの3階建ての建物がメスキータ南壁です。
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16基のアーチで支えられた全長230mのローマ橋はなかなかの壮観です。初代ローマ橋が架けられたのは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの治世でした。この橋を土台にしてイスラム教徒が築いた橋は、戦闘による破壊と改築の繰り返しで、土台だけしか残っていません。16世紀にキリスト教徒によって改修された部分がほとんどです。f:id:greenbirdchuro:20190811183530j:plain

 

橋が流線形を描いているのがわかります。もともと水量豊富なグアダルキビル川が雨で増水すると橋脚に負担がかかるため、それに耐えうるようにアーチを支える橋脚は流線型に設計されているんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190811183834j:plain

 

ローマ橋の対岸からは、メスキータの全景を見ることができます。アンダルシアの青空にえんじがかった建物がとても映えています。それにしても遠くからみてもモスクなんだかカテドラルなんだか益々わかりにくい外観ですね。f:id:greenbirdchuro:20190811183858j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811183928j:plain


橋のたもとに建つのはムーア人の言葉で自由の城を意味するカラオーラの塔です。コルドバ市民が、モーロ時代からあった小さな砦を1369年に拡張したもので、橋と街のための防衛施設でした。かつては、ここを通らなければ橋の上に出られない構造になっていたそうです。カラオーラの塔は、メスキータやアルカサルと共に「コルドバ歴史地区」として世界文化遺産に認定され、現在は歴史博物館として利用されています。f:id:greenbirdchuro:20190811183801j:plain

 

「西方の真珠」と呼ばれたほど栄えたコルドバ。アンダルシアらしい澄んだ青空の下で、今でも美しい街並みは健在です。

 

 

 

コルドバ歴史地区 前編(旧ユダヤ人街からメスキータ)

見るからに新しいピカピカのマラガ・マリア・サンプラーノ鉄道駅にやってきました。まだ時間が早いこともあってひと気が少ないですが、このターミナル駅はスーパーマーケットや飲食店街があるだけでなく、ショッピングモールとも繋がった複合施設になっています。f:id:greenbirdchuro:20190811175551j:plain

 

あらかじめWebで購入していたチケットでお馴染みのスペイン国鉄の列車に乗り込みます。ここから次の街コルドバまで高速鉄道AVEでわずか1時間の旅です。f:id:greenbirdchuro:20190811175557j:plain

 

あっという間に到着したコルドバ。クリスマスから1週間は経つというのにこちらもまだまだクリスマスムード。中華圏だと旧正月まで続くことも珍しくないクリスマスシーズンですが、スペインではいつまでこのツリーが飾られているか見届けてみたい気持ちになってきます。f:id:greenbirdchuro:20190811175602j:plain

 

ホテルにチェックインを済ませると、さっそくの街歩きを開始しました。コルドバ最大の見どころであるメスキータを目指して市街地を南下していくと、いつしかメスキータの北側に広がるユダヤ人街に紛れ込みます。迷路のように入り組んだ細い路地の両側に、土産物屋や飲食店の入った白塗の壁の建物が続き、その壁には花の鉢植えが飾られています。アンダルシア地方特有のかわいらしい風景に心が躍ります。f:id:greenbirdchuro:20190811182952j:plain

 

ここにはかつて多くのユダヤ人が住んでいました。イスラム支配時代に西カリフ帝国の政治経済を支える存在として厚遇されたユダヤ人は、キリスト教支配下になった当初もその地位を保っていました。しかし、1492年にカトリック両王ユダヤ人追放令を発布したことで状況が一変。この街から彼らは姿を消してしまいました。f:id:greenbirdchuro:20190811182948j:plain

 

ユダヤ人街の中で最も有名なスポットは、花の小路と呼ばれる小さな袋小路です。ベラスケス・ボスコ通りの右手にある狭い路地に入るとひときわ鮮やかに花の飾られた白壁の細道があります。さらに進むと袋小路になった突き当りには噴水と土産物屋。そこまで行って一気に振り返ると、歩いてきた美しい細路の間にメスキータのミナレットがそびえているという感動的な景色に出会えます。真冬でこの彩りですから、春になったらどれだけ花が咲き乱れるのか・・・。f:id:greenbirdchuro:20190811182956j:plain

 

ユダヤ人街を抜けて、いよいよ憧れのメスキータに入場です。

 

スペイン語のモスクを意味するメスキータは、コルドバ聖マリア大聖堂を指す固有名詞でもあります。そうなると、世界遺産にも登録されているこのメスキータはモスクなのか?カテドラルなのか?という疑問が生まれてくるのは自然な流れ。それを解き明かすためにはコルドバの歴史に対する理解が必要になります。

 

ローマ時代から属州の首都として栄えていたコルドバは、711年にジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸から侵攻してきたイスラム教徒によって征服され、756年に成立した後ウマイヤ朝の首都となって以降、益々の栄華を極めていきました。コルドバに大きなモスクが必要だと考えた指導者(カリフ)のアブド・アッラフマーン1世が、西ゴート王国支配時代に聖ビセンテ教会があった場所を買い取ってモスク建設を開始したのは785年のことでした。小規模だったモスクは、イスラム教徒の増加と共に拡張工事が繰り返され、10世紀末には数万人を収容できる巨大モスクになっていました。しかし13世紀のレコンキスタによってカスティーリャ王国イスラム教徒からコルドバを奪還すると、巨大モスクはカトリックの教会堂に転用されるようになっていきます。モスクの内部に作られた礼拝堂で日曜日にはキリスト教徒が礼拝をし、金曜日にはイスラム教徒が集団礼拝をするというように共存の時代がしばらく続きましたが、16世紀にスペイン王カルロス1世がモスクの中央部にゴシック様式ルネサンス様式の折衷様式の教会堂を建設したことで、1つの空間に2大宗教の礼拝堂が混在する世界でも稀に見る不思議な建築物が出来上がったというわけです。

 

モスク時代の指導者アブド・アッラフマーン3世の時代に建設されたミナレットは、低層建築の多いコルドバの市街地ではひときわ目をひきます。ミナレットの内部にある203段のらせん階段を登れば上部のバルコニーに上がることができます。f:id:greenbirdchuro:20190811174716j:plain

 

塔の上部に複数の鐘が設置され、尖塔の先にはコルドバ守護聖人ラファエルの像が据えられています。そうなんです!ミナレット(モスクに付属する塔)とは呼んでいますが、高さ54mの塔のうち、モスクの時代のものは40mの高さの四角柱までで、その上に付け足された14mの円柱部分がレコンキスタ以降に付け足された鐘楼(キリスト教会)になっているんです!f:id:greenbirdchuro:20190811180407j:plain

 

10m程度の高い塀で囲われたメスキータの外側をぐるりと1周してみると、イスラムの装飾が施された美しい門を見ることができます。西側の壁にあるサン・ミゲル門の扉の上には馬蹄型アーチがあり、さらにその上に交差型アーチ、扉の左右に多弁型アーチがある特徴的な装飾がされています。f:id:greenbirdchuro:20190811213225j:plain

 

北側にある免罪の門は、幾何学模様の漆喰装飾のアーチの上にキリスト教の装飾が施された大きな門です。免罪の門をくぐった場所にチケットカウンターがありました。f:id:greenbirdchuro:20190811213325j:plain

 

オレンジ・コートと呼ばれる中庭には、糸杉とオレンジの木が植えられていて、オレンジの甘酸っぱい香りが鼻をくすぐります。この前庭は、かつてイスラム教徒がお祈りの前に身を清める浄めの庭でもありました。石畳の庭に設けられた水路とこのアルマンソールの井戸にその名残が見られます。f:id:greenbirdchuro:20190811174754j:plain

 

回廊に囲まれた中庭ははいかにも聖堂のそれらしく見えていますが、建物と中庭とを隔てる壁はレコンキスタ以降に造られたもので、モスク時代にはなかったものでした。礼拝の間が開放された中庭にはナツメヤシや月桂樹が植えられていて列柱の森とひと続きに見えるような造りになっていたそうです。f:id:greenbirdchuro:20190811174759j:plain

 

大聖堂の改築時にも塞がれなかったシュロの門(栄光の門)からメスキータの中に入っていきました。入場してすぐ目に飛び込んでくるのが、赤と白の美しいアーチがずらりと並ぶ幻想的な円柱の森(礼拝の間)です。アーチの列はメッカの方向に対して垂直になっていました。入口からすぐのエリアが、785年にアブド・アッラフマーン1世によって建設された初期の部分になります。よく見ると馬蹄形のアーチが載った大理石柱のデザインや色にバラツキがあることに気がつきます。これは、建築費用を抑えるために各地にあるローマ神殿の大理石柱などを集めて再利用したためです。f:id:greenbirdchuro:20190811175045j:plainf:id:greenbirdchuro:20190812002856j:image

 

天井を高くするため赤いレンガと白い石灰岩が交互に配置された馬蹄型のアーチが2重になっています。緻密な計算により設計されたこの2重アーチは、ローマ時代の水道橋をモデルにしたと言われています。どおりで、どこかで見たことがある気がしてました。コルドバの発展につれてイスラム教徒が増え、モスクが手狭になったため、複数回の増築が繰り返されていますが、基本的には当初の建築構造を引き継いでいるので、初期の雰囲気が上手に残されています。それでも、近くで見るとアーチの赤白ストライプが塗料で描かれていることに気がついてしまって趣ダウンは否めませんが。f:id:greenbirdchuro:20190811175059j:plain

 

初期の円柱の森のあたりで床に目をやると、ガラス越しに地下のモザイクタイルを見ることができます。これはメスキータが建てられる前にあった西ゴート王国の教会ビセンテ教会の遺跡です。つまり、メスキータの中でこの場所が一番古いということになります。f:id:greenbirdchuro:20190811181428j:plain

 

通常の大聖堂では翼廊や側廊に並ぶ小礼拝堂がここでは壁際に造られています。その数は50近くもあるとか。アーチが並ぶ円柱の森はいかにもイスラム教的なのに、その壁にキリスト教の小礼拝堂がいくつも並んでいるというこのメスキータならではのミスマッチに戸惑いとワクワクの両方を覚えます。f:id:greenbirdchuro:20190811222838j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811222842j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811222655j:plainイスラム教建築のアーチの上にキリスト教建築のヴォールトが載っているというたまらない違和感です。f:id:greenbirdchuro:20190811214143j:plain

 

アルハカーム2世の時代に拡張されたスペースにあるミフラーブへと続く中央身廊は美しい多弁型2重アーチで囲まれています。人だかりのできているミフラーブに吸い寄せられそうになりますが、ここで左側の壁に視線を向けると、この場所がレコンキスタ後に造られたキリスト教ビジャビシオサ礼拝堂になっていることに気がつきます。礼拝堂の十字架が掲げられた周囲は、イスラム様式の多弁型二重アーチで囲まれています。f:id:greenbirdchuro:20190811214311j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811214316j:plain

 

ミフラーブとカテドラルの聖歌隊室の間に造られたこの礼拝堂の身廊はキブラの壁に平行になっています。メスキータ内に造られた最初のキリスト教の聖堂なんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190811211435j:plain

 

すでにメスキータの虜になっていますが、見どころはまだまだ続きます。

 

スペイン製 ガイドブック コルドバ のすべて TODO CORDOBA スペイン語版 写真集 seu-cor-sp

スペイン製 ガイドブック コルドバ のすべて TODO CORDOBA スペイン語版 写真集 seu-cor-sp

 

断崖の上に築かれた絶景の街 ロンダ

ロンダ駅から真っ直ぐ伸びるマルティネス・アステイン通りを南下し、新市街の繁華街エスピネル通りに入ります。モザイクタイルの貼られたお洒落な通りは、アンダルシアで最も長い歩行者天国。閑散とした駅周辺とは対照的にとても賑わっています。f:id:greenbirdchuro:20190810081925j:plain

 

通りの突き当たりにある円形ドームの白い建造物はロンダ闘牛場です。近代闘牛の生みの親フランシスコ・ロメロの出身地にして、闘牛発祥の地として知られるロンダにスペイン最古の闘牛場が完成したのは1785年でした。直径約66mの円形ドームの中には5000人もの観客を収容することができます。f:id:greenbirdchuro:20190810082447j:plain

 

闘牛場のお隣の三木春日広場にはアーネスト・ヘミングウェイの像がありました。 著名人が1度でも訪れると〇〇が愛した街PRが始まるというよくあるパターンかと思いましたが、保養地だったロンダに彼がしばしば訪れ、前述の闘牛場に足繁く通っていたというのは事実のようです。ヘミングウェイがスペイン内戦を描いた誰がために鐘は鳴る」の舞台にもなっていますしね。f:id:greenbirdchuro:20190810082539j:plain

誰がために鐘は鳴る(上) (新潮文庫)

誰がために鐘は鳴る(上) (新潮文庫)

 
誰がために鐘は鳴る(下) (新潮文庫)

誰がために鐘は鳴る(下) (新潮文庫)

 

 

広場の先には展望台がありました。城壁で守られた市街地の外は切り立った崖で、眼下には田畑や原野のパッチワークがどこまでも広がっています。そのはるか向こうにシエラ・デ・グラサレマの山々が見えています。f:id:greenbirdchuro:20190810082629j:plain

 

展望台から左手を見ると、荒々しい岩山の上に築かれたロンダの町並みが見渡せます。手前の新市街側の絶壁の上に建っているパラドール (国営ホテル)は、1761年に建てられた昔の市庁舎を改装したものです。 奥に見える旧市街側の垂直に切り立った岩山の上には張り付くようにアンダルシアらしい白い家々が建ち並んでいました。f:id:greenbirdchuro:20190810082649j:plain

 

パラドールのそばまで足を進め、新旧の市街地を隔てるタホ渓谷をのぞき込むとその深さに足がすくみそうになります。紀元前数世紀にケルト人によって作られたロンダは、時の支配者によってローマの砦になったり、アラブの砦になったりしてきました。自然によって波打つような模様が刻まれた巨大な岩山の断崖の迫力に圧倒されます。長い歴史の中でこの場所が要塞となってきたのも必然の流れと言えます。f:id:greenbirdchuro:20190810082658j:plain

 

ヌエボ橋は、新市街と旧市街を最短距離で結ぶためにタホ渓谷にかけられた石橋です。1751年から建設が始まり、1793年に完成しました。建設に40年以上の歳月を費やした理由は、単に橋を架けることが難しかったからだけではありません。実は、現ヌエボ橋の前に8か月ほどの工事期間で造られた橋が数年で崩落して多くの犠牲者を出すという悲しい事故があったからです。悲劇の舞台となることが二度とないような強固な橋を造らなくてはならないという人々の強い思いが込められています。f:id:greenbirdchuro:20190810082707j:plain

 

映画「アンダルシア・女神の報復」の舞台なったことで一躍有名になりましたよね。f:id:greenbirdchuro:20190810082946j:plainf:id:greenbirdchuro:20190810082844j:plain

 

旧市街側にわたってすぐ右手の小路から渓谷に延びる坂を降りていきます。写真を撮ってもらった時はまだまだなだらかな階段でしたが、100mも下の渓谷に降りるわけですから、これで済むはずがありません。この後しばらくは急峻な下り坂が続きました。f:id:greenbirdchuro:20190810083438j:plain

 

坂道を下る途中のビューポイントからの堂々とした佇まいはまるで天空に浮かぶ要塞といった感じです。標高750mの岩山の上にある新旧の市街地、それを隔てる深い渓谷、渓谷からそびえ立つ高さ100mの堅牢なロマネスク様式の石橋、これらが作り出す壮大な景観には、美しさだけでなく、神々しささえありました。f:id:greenbirdchuro:20190810083716j:plain

 

さらに細い道を進み、渓谷を流れるグアダレビン川を目指します。f:id:greenbirdchuro:20190810083727j:plain

 

ヌエボ橋の真下までやってきました。200年以上前のクレーンや重機がない時代に人の力で石を積み上げてこの巨大で美しい橋を造ったのかと思うと、当時の人々への尊敬の念を禁じえません。f:id:greenbirdchuro:20190810083737j:plain

 

谷の奥深くに行くほどに崖は高く立ちはだかり、渓谷から見上げた景色はもはや橋というより別世界に繋がる門のようです。まるでロード・オブ・ザ・リングの世界に迷い込んだような気持ちになります。橋の中央アーチにある窓付きのスペースはかつて牢獄やレストランとして使われてきましたが、現在は博物館になっているそうです。f:id:greenbirdchuro:20190810083742j:plain

 

シエラ・デ・ラス・ニエベス山脈を源流とするグアダレビン川の流れは大河というよりせせらぎのそれです。およそ5000万年の年月をかけているとはいえ、この川が石灰岩を浸食してこのタホ渓谷を造ってきたという事実はにわかには信じられません。f:id:greenbirdchuro:20190810083758j:plain

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迷路のような旧市街を縫うように歩いてアラブ浴場に到着しました。イスラム支配下にあった13~14世紀のナスル朝時代に建てられた公共浴場の跡です。f:id:greenbirdchuro:20190810084620j:plain

 

映像やパネルで入浴法や浴場内の設備について解説されていました。浴場とは言ってもイスラムスタイルですから、スチームサウナで温まった後にあかすりをしてもらって汚れを落として入浴完了するいわゆる「ハマム」のようなものです。湯船らしきものもあったようですが、浸かるというより汚れを流すためのものだったと思われます。f:id:greenbirdchuro:20190811082731j:plain


広々とした内部の空間は、馬蹄形のアーチに支えられた高い天井から取り入れた自然光でほんのりと照らされ、リラクゼーションにはほどよい絶妙な採光具合です。正直なところ、外観を見た時は内部にこれほどの遺跡があるなんて期待していませんでした。キリスト教徒が街を奪還した後も破壊されずに残っていたことと、長い年月が経過しているのに保存状態が良好であることにびっくりさせられます。f:id:greenbirdchuro:20190810084630j:plainf:id:greenbirdchuro:20190811082612j:plain

 

アラブ浴場は川からくみ上げた水を焚き上げたスチームサウナですから、敷地の低層階はグアダレビン川に面しています。ほとんど流れがないように見えますが、タホ渓谷のゴツゴツした岩肌が丸みを帯びているのも川による長期の浸食の影響ですね。f:id:greenbirdchuro:20190810084930j:plain

 

イスラム式の庭園になった浴場の中庭からはロンダの郊外の景色を眺めることが出来ます。グアダレビン川の水の供給源となっているシエラ・デ・ラス・ニエベス山脈の山並みが美しく雄大です。f:id:greenbirdchuro:20190810084647j:plain

 

スペインには「白い街」を売りにしているところがたくさんありますが、ロンダもなかなかの白い街っぷりですね。f:id:greenbirdchuro:20190810084941j:plain

 

エスタ・デ・サント・ドミンゴ通りの坂を下るとフェリペ5世の門が見えてきました。フェリペ5世統治下の1742年にアラブ時代からあった門を立替えたものです。 f:id:greenbirdchuro:20190810085125j:plain

 

フェリペ5世門の先にイスラム支配時代に造られたビエホ橋が見えてきました。新しい橋という意味のヌエボ橋に対し、ビエホ橋には古い橋という意味があります。名前通り、ヌエボ橋よりもだいぶ前の1611年にローマ時代の石組の上に造られています。f:id:greenbirdchuro:20190810085122j:plain

 

こちらの渓谷のなかなかの景色です。ビエホ橋も30mほどの高さがありますから、ヌエボ橋を先に見ていなかったらもっと感動したかもしれません。ちなみに新市街と旧市街を分断する深い渓谷には3つの橋がかかっていて、最古のものはビエホ橋よりもう少しだけ上流に位置するサン・ミゲル橋だそうです。f:id:greenbirdchuro:20190810085305j:plain

 

橋を渡った先にあった市街地を散策するのはなかなか楽しいものでしたが、白壁が続く街並みは目印がないので迷子になると大変です。Googleマップがなかったらわたしもどうなっていたことか・・・。f:id:greenbirdchuro:20190810085312j:plain

 

アフリカ大陸のモロッコを目指して意気揚々とマラガを出発しましたが、強風でジブラルタル海峡を渡れなかったおかげで、自然と人がともに造り上げた予想以上の絶景に出会うことができました。

 

アンダルシアの旅はまだまだ続きます。

 

アルヘシラスからモロッコのタンジェを目指してみた

夜中のお祭り騒ぎがウソのように静まり返った明け方のこと。アンダルシア上陸からまだ24時間もたっていませんが、南部の港町アルヘシラスに向かい、そこからジブラルタル海峡を渡ってアフリカの玄関口であるモロッコタンジェに行くため、マラガのバスターミナルにやってきました。 タンジェは初めて訪れる街ですが、モロッコは周遊経験があるので、今回の目的は街歩きというより、ただ単にジブラルタル海峡を船で渡ってアフリカ大陸に上陸すること。アフリカ日帰り旅行できるなんて想像しただけでテンションがあがります。f:id:greenbirdchuro:20190810081007j:plain

 

年末年始と週末が重なっていたので、スペインからアフリカに帰省する人も多いかもしれない・・・と、6時45分発の始発狙いで6時前にはバスターミナルにやってきました。バスターミナルの建物は煌々と灯りがついていましたが、チケットカウンターも開いておらず、まだ誰もお客さんがいません。これならアルヘシラスまでは確実に辿り着けそうです。利用するバス会社はavanzabus(https://www.avanzabus.com/)です。f:id:greenbirdchuro:20190810082053j:plainf:id:greenbirdchuro:20190810081003j:plain

 

ほぼ1番乗りでチケットを購入でき、夜の明けきらないマラガからスペイン南部のアルヘシラスを目指します。バスの座席は半分以上が埋まっていましたが、年末年始で帰省するスペイン出稼ぎ中のアフリカ出身者といった感じの人がほとんどで、わたしのような観光客は皆無でした。

 

南に向かうバスの車窓に朝焼けに照らされた岩山が見えてきました。イベリア半島南端の岬にあるジブラルタルロックです。古代ローマ人北アフリカにあるアチョ山とともにヘラクレスの柱とみなしてきた石灰岩のこの岩山は、426mの1枚岩 !ユトレヒト条約締結以降は、イギリス領になっています。見るからに難攻不落の要塞といった感じなので、ここをピンポイントで領土とすることに軍事上の大きな意義があるんでしょうが、領土問題では辛酸をなめてきた日本人から見ても、こんな不自然な飛び地が揉めないはずありません。平和とはほど遠そうなこの場所でジョン・レノンオノ・ヨーコが結婚式を挙げたのも意味不明です。どの辺がLove and Peaceなのか?と。f:id:greenbirdchuro:20190810081211j:plain

 

ジブラルタル海峡を渡ってタンジェに向かうフェリーはアルヘシラス港とタリファ港の2つの港から出ています。アルヘシラス港からの船はタンジェの市街地から50kmも離れた郊外に着くので、旧市街のそばに着くタリファ港発の船に乗りたいところ。アルヘシラス港でタリファ港発のチケットを購入することが出来たので、港間を結ぶシャトルバスに乗り、20kmほど南あるタリファ港に到着しました。30分ほどでタリファ港の旅客ターミナルに到着しました。タリファ港からだとFRS社とInter Shipping社からあわせて10便以上が出航しています。https://www.aferry.com/inter-shipping.htmf:id:greenbirdchuro:20190810081302j:plain

 

マリア・コロネル通りを挟んでフェリーターミナルの向かいには、グスマン・エル・ブエノ城(タリファ城)がありました。建築年月日を残すイスラム教の慣習のおかげで、アブデラマン3世の命でこの要塞が完成したのが960年だという正確な記録が残っています。華やかなファサードがあるわけではなく、興味を示す観光客もほとんどいませんが、1000年以上もの月日が経過しているとは思えない良好な保存状態です。地理的条件からも、イスラム教徒によって建てられたものをキリスト教徒が破壊せずに使い続けたことからも、要塞として重要な建造物だったことが伺えます。余所者のわたしが言うのはなんですが、長く要塞として貢献したこのお城にもっと敬意を払っても良いような気がしました。f:id:greenbirdchuro:20190810081256j:plain

 

ジブラルタル海峡の強風が吹き付けるタリファの海は、ウィンドサーファーやカイトサーファーにとても人気があるそうです。港には明らかにレジャー用と思われる船舶が並んでいました。マリーナの奥にも、要塞らしき建造物がありました。なかなかの見た目なのにGoogleマップにもそれらしき名前が付いていないあたり、グスマン城の見張り塔のようなものなのかもしれません。f:id:greenbirdchuro:20190810081250j:plain

 

風力発電が盛んなタリファだけあって、晴天にも関わらず、油断するとよろめいてしまうほどの強風が吹いていました。ターミナルで乗船手続きを待っていると、先発船の欠航が発表されました。欠航理由は強風・・・。嫌な予感しかしません・・・。競馬・競輪・競艇、何一つ当たったことがないのにこんな予感だけは的中するものです。ほどなくして、まさかの全便欠航が発表されました。晴天なのに・・・。青天の霹靂とはこのこと?翌日にはコルドバに向かうスペイン国鉄のチケットを予約しているので、チャンスはこの日だけ。海を超えてヨーロッパからアフリカ大陸に渡るというわたしの小さな大冒険はあっけなく終了してしまいました。f:id:greenbirdchuro:20190810081239j:plain

 

発券した窓口でないとチケットの払い戻し出来ないと言われたので、再び、アルヘシラス港に戻り、返金手続き。試しにアルヘシラス港からの船に空きはないか聞いてみましたが、こちらも全便欠航でした。穏やかそうに見えるジブラルタル海峡が恨めしくて仕方ありません。早起きしてホテルの朝食を抜いてまでやって来たのにこのままマラガに帰るのは悔しすぎる。かと言って周辺にこれという観光資源も見当たらず。とりあえず国鉄の駅に向かってみることにしました。しかし、駅の周りにあるのはファストフード店くらい。おかげででアルヘシラスへの未練はキッパリと断ち切ることが出来ました。f:id:greenbirdchuro:20190810081308j:plain

 

ガイド本を見て選んだ次なる目的地に向けて列車が走りだしました。アルヘシラスを抜けたところでジブラルタルロック、AGAINです。岩山のすぐ近くに位置するジブラルタルの空港は世界で最も離発着難易度が高いらしいので、いつか空からジブラルタルを目指してみたいものです。f:id:greenbirdchuro:20190810232629j:plain


急行列車は、乾いた大地にオリーブ畑が広がるいかにもスペインという景色の中を走り抜けて行きました。f:id:greenbirdchuro:20190810081908j:plain

 

アルヘシラスから1時間30分ほどの鉄道旅で到着した目的地は、海抜739mの岩がちな台地の上に位置する峡谷の街ロンダです。f:id:greenbirdchuro:20190810081713j:plain

 

う〜ん、普通すぎる駅舎。でも、オーストリアの詩人リルケをして夢の町と言わしめたロンダですし、歌劇 「カルメンヘミングウェイの小説 「誰がために鐘は鳴る邦画 「アンダルシア・女神の報復」 の舞台にもなっています。美しい風景が待っていると思うといやがおうにも期待が高まります。f:id:greenbirdchuro:20190810085350j:plain

 

 

ビゼー:歌劇《カルメン》 [DVD]

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コスタ・デル・ソルの中心都市マラガ

市街地を西に向かって進むと古代ローマ劇場が見えてきました。紀元1世紀にアウグストゥス皇帝によって建設され、 3世紀まで使用されていた由緒ある劇場です。この半径31m・高さ16mの大きな劇場は、ちょっとしたイベントならこのままでも使えそうな感じですが、何世紀にもわたって土の中に埋もれていたのを、ごく最近の1951年に発見されたばかりなんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190807210522j:plain

 

ローマ劇場は無料公開されているので、公園のベンチのように利用する人も多いようです。ぜいたくな時間の過ごし方ですね。劇場の観覧席の背部には隣接する城砦(アルカサバ)が見えています。f:id:greenbirdchuro:20190807210526j:plain

 

アルカサバと言えば真っ先にアルハンブラ宮殿を思い浮かべますが、もともとは城砦のことなので、当然ながらスペイン国内のあちこちに存在しています。マラガのアルカサバが初めて要塞として機能したのは、紀元前のフェニキア人の時代でした。現存するアルカサバはローマ時代の要塞を基にして、グラナダアルハンブラ宮殿よりも先のイスラム教徒統治時代の11世紀に建てられたものです。f:id:greenbirdchuro:20190807210530j:plain

 

アルカサバの入り口は、ローマ劇場横のインフォメーションのすぐ近くにあります。山の斜面に沿ってオレンジの木が並ぶ石畳の坂道を、眼下に広がる景色を楽しみながらゆっくりとを登っていきます。f:id:greenbirdchuro:20190807210642j:plain

 

このアルカサバが建設された11世紀のアンダルシアはコルドバ最盛期とグラナダナスル朝の間の混乱の時代にありました。当然ながら、先に建設されたアーチのデザインなどは後世に建設されるアルハンブラ宮殿よりもむしろコルドバのメスキータに近い印象があります。よく見るとアーチを支える大理石柱の中には、ローマ劇場の柱を転用したものが含まれていて、ちぐはぐなところがありました。f:id:greenbirdchuro:20190807210653j:plainf:id:greenbirdchuro:20190813115814j:plain

 

この小さくも美しい中庭にはアルマス広場という大層な名前がつけられています。このアルカサバが増改築された13世紀当時のマラガは、グラナダ同様にナスル朝統治下にありました。増改築によって塔や城壁などの防衛機能の強化がなされただけでなく、宮廷としの機能が加えられ、中庭や池などが美しく整えられていきました。アルハンブラ宮殿ほどの華美さはありませんが、庭園や噴水を見ると、小アルハンブラであることは疑いようもありません。f:id:greenbirdchuro:20190807210650j:plain

 

もともと要塞なので見晴らしが良いのは当たり前ですが、このアルカサバは地中海やマラガ市街地の景色を見渡せる絶好の展望台です。かつての見張り台の向こうには、青い地中海と多数のヨットやクルーズ船が停泊するマラガ港が見渡せ、まさにコスタ・デル・ソルという景色がありました。今やリゾート地として有名なマラガですが、良港のおかげでローマ時代から現代にいたるまで地中海貿易の中心でもありました。f:id:greenbirdchuro:20190807210658j:plain

 
アルカサバからヒブラルファロ城に向かいました。ヒブラルファロ城はアルカサバ補強のための要塞として同じくイスラム教徒支配時代の14世紀に建てられました。かつての両者は城壁でつながっていて、コラチャと呼ばれる通路で行き来ができたそうですが、現在では、建物同士はすぐ近くにあるものの入り口の位置はヒブラルファロ山の上と下という風に離れた場所に位置していて移動のための上り下りは避けられません。アルカサバ沿いの坂道をヒブラルファロ城に向けてひたすら登って行きます。f:id:greenbirdchuro:20190807211347j:plain

 

ヒブラルファロ城が建てられた14世紀と言えば、ナスル朝が最も栄えた頃です。アルハンブラ宮殿のコマレス宮などを建てたことでも知られるユスフ1世は、大昔からあった要塞をナスル朝スタイルに作り替え、アラビア語で「灯台のある山」を意味する名前を付けました。カトリック両王によってマラガが陥落した後、フェルナンド王はヒブラルファロ城をマラガの紋章に指定しています。支配者が変わってもこの街にとって象徴的な建築物であったことには変わりなく、現在のマラガの紋章の中央にも地中海を前にそびえ立つアルカサバとヒブラルファロ城が描かれています。f:id:greenbirdchuro:20190807211353j:plain

 

城の中には武具や銃などを展示した小さな博物館がありました。f:id:greenbirdchuro:20190807211400j:plain

そして、マラガの街の模型。旅のスタートに眺めるには最適です。f:id:greenbirdchuro:20190807211404j:plain

 

眼下にはギリシャ神殿のような立派な建物が見えています。これは、1919年に開業したマラガ市庁舎で、ゲレーロ・ストラチャンとリベラ・ベラの作品です。市庁舎の前にはかつての市長の名前を冠したペドロ・ルイス・アロンソ庭園があります。庭園のデザインが、樹木を幾何学模様に配置した左右対称であることもイベリア半島が長くイスラム支配下にあったことを実感させます。f:id:greenbirdchuro:20190807211413j:plain

 

城壁の向こうにはマラガの街並みが広がっています。街の背後に迫った美しい山並みで、この街が海にも山にも近いことがわかります。f:id:greenbirdchuro:20190807211102j:plain

 

旧市街でひときわ目立つのはマラガ大聖堂です。近くで見たときは違和感を感じませんでしたが、こうして全体を見ると、確かに塔が北塔の1本しかないのはバランスが悪いようにも見えます。片腕の貴婦人のままで良しとするか、貴婦人にもう1本の腕をつけるのか、マラガ市民の議論は今後も続いていくことでしょうね。f:id:greenbirdchuro:20190807211110j:plain

 

眼下には幼少期のピカソが父親に連れられて訪れたというマラゲータ闘牛場が見えています。わたしが始めて闘牛を見たのはもう10年も前のことですが、あまりに残酷で最後まで直視することが出来なかったので、わたしよりもずっと多感に思える幼少期のピカソが闘牛を楽しんでいたかどうかは甚だ疑問です。闘牛場の奥には街から最も近い砂浜のビーチが広がっているはずですが、闘牛場を取り囲むように建つ高層ビルのせいでマラゲータビーチの姿は確認できません。f:id:greenbirdchuro:20190810090337j:plain

 

風が強くなってきたので山からおりてきました。

 

メルセー通りの角にはcasas de campos(田舎の家々)という通称をもつひと続きになった大きな建物があります。マラガの中心地に近い場所に位置しているにも関わらず田舎の〜と呼ばれている理由は不明ですが、黄色の装飾アクセントが入った白壁の建物がコスタ・デル・ソルの青空によく映えています。この建物は、20世紀最高の画家のひとりに数えられるパブロ・ピカソが、この世に生を受けた1881年からスペイン北部ガリシアア・コルーニャに移る1891年までの幼少期の10年間を過ごした生家として知られています。1988年から博物館として公開されていて、1階はギャラリーとミュージアムショップ、2階はピカソが暮らした当時の様子を再現したものになっています。f:id:greenbirdchuro:20190807211820j:plain

 

幼少時代のピカソは、生家の前のメルセー通りでよく鳩と戯れていたそうです。アトリエでも鳩を飼っていて、自分の娘にもスペイン語で鳩を意味するパロマという名前を付けていることから鳩に対する思い入れの深さが伺えます。1949年にパリで開かれた第1回国際平和会議のポスターを手がけたピカソは、オリーブの葉を咥えた鳩を描きました。このことによって鳩が平和の象徴であることが世界中に知られるようになっていったようです。幼少期のピカソノアの方舟の話から鳩が平和の象徴であったことを認識していたかどうかはわかりませんが、彼にとっても幸せな子供時代を象徴する動物なのかもしれません。f:id:greenbirdchuro:20190810084041j:plain

 

さらに歩いて5分ほどのローマ劇場跡の向かいあたりにピカソ美術館がありました。ルネサンス様式とムデハル様式を融合させた16世紀のアンダルシア風建築です。91歳で亡くなるまで数多くの作品を残してきたピカソですから、その作品は世界中に点在していますが、このマラガの美術館は「生まれ故郷に自分の作品が留まるように」というピカソの願いをくんだ遺族が中心となって設立したものです。10代の頃に描いた希少な作品を初めとする285点もの作品が展示されています。ピカソの作品はお腹いっぱい見てきたので、ここでは入場しませんでしたが、彼の作風の変化を知る上では最適な美術館だと思われます。f:id:greenbirdchuro:20190807212031j:plain

 

夜になると市街地には、いったい昼間はどこに隠れていたの?というくらいの人が現れて、とても賑わいます。みんなのお目当てはバルでの1杯、2杯、3杯・・・。f:id:greenbirdchuro:20190807212806j:plain

 

旅行中はスペインのバル文化も楽しんでみたいと思っています。

 

CREA Due Traveller「最愛スペイン」

CREA Due Traveller「最愛スペイン」

 
Lais Puzzle マラガ 2000 部

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アンダルシア上陸・マラガ

2017年、年の瀬も押し迫った頃、年末年始を暖かいところで過ごしたくて、航空券漁りをしていたわたしは、スペインのマラガ行きの格安航空券をみつけてしまいました。暑いのも寒いのも苦手なわたしにとって、同じスペインでもマドリードバルセロナでもなく、コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)沿いにあるこの時期のマラガの温暖な気候は願ってもないところです。地方都市にも関わらず、アメニティのクオリティに定評のあるトルコ航空が就航していて、イスタンブール1回乗継で行けちゃうという掘り出し物のチケットでした。

 

56万人が暮らすマラガの街の規模は、スペインで6番目、アンダルシア州で2番目になります。1年のうち約300日が晴天だというコスタ・デル・ソルの中心都市で、そのトレードマークのような青い空青い海を求める(わたしのような)観光客が、年間を通して途切れることなく国内外から押し寄せてきます。

 

マラガを拠点にしてアンダルシア地方を巡ることにしたので、マラガの鉄道駅とバスターミナルに近接した場所を宿泊先に選びました。海は見えない場所ですが、建物を出た瞬間に頬を撫でた穏やかな風には十分に海の匂いが感じられました。泳がなくても海が近いだけでテンションが上がるというのは人のサガでしょうか?f:id:greenbirdchuro:20190807212403j:plain

 

アラメダ・プシンシパル通りを東に向かうとマリーナ広場の前に大きな彫像群が立っていました。美しい大理石の台座の頂部に立つ銅像マヌエル・ドミンゴ・ラリオス像です。彼の名前を冠した施設が市内に多く存在することからもこの街の産業の発展と雇用促進に大きく貢献した人物であることが伺えます。f:id:greenbirdchuro:20190807212405j:plain

 

街の功労者の名前がついたマルケス・デ・ラリオス通りは、その道沿いにブランドショップ・レストラン・カフェなどが建ち並ぶ歩行者天国になっています。路上にはクリスマスイルミネーションのものと思われる飾りつけがされていて、とても華やかな雰囲気です。年末年始を海外に過ごすようになって知ったことですが、日本以外のたいていの国では25日を過ぎてもクリスマスシーズンが続きます。年が明けてもまだクリスマスという国だってあります。12月25日が終わった瞬間にツリーが門松に変わり、店先のケーキが半額になって鏡餅やお節の材料に入れ替わる日本とは大違いです。f:id:greenbirdchuro:20190807212410j:plain

ちなみに、夜になってイルミネーションが点灯したマルケス・デ・ラリオス通りには幻想的な光のトンネルが出来上がります。f:id:greenbirdchuro:20190808154606j:image

 

通りを北上していくと、突き当たりにコンスティトゥシオン広場(憲法広場)が見えてきました。観光案内所やショップに囲まれた落ち着いた雰囲気の広場ですが、イベントが予定されているようで舞台が設営されています。背の高いヤシの木がいかにも南国という感じがします。f:id:greenbirdchuro:20190807212413j:plain

夜の憲法広場は、昼間の落ち着いた雰囲気とは打って変わって巨大ツリーのイルミネーションが燦々と輝く煌びやかなお祭り広場に一変します。(わたしも含めて)光に集まる虫のように繰り出してきた人々で身動きが取れないほどの混雑ぶりです。f:id:greenbirdchuro:20190807213120j:plain

昼間に設置されていた舞台の上では、スペインらしくフラメンコショーが行われていました。プロではなく、地元の婦人会とかサークルの発表会?という感じだったので少し見ただけで人混みから避難しましたけど。f:id:greenbirdchuro:20190808154617j:image

 

広場からあちこちに伸びる迷路のような細い路地の1本1本がかわいらしく個性的です。モザイクの石畳みが美しいこの通りはコレオ・ビエホ通りです。こんな細い路地にもレストランのテラス席になっていたりするからビックリです。宝探しをしているようなワクワクした気持ちになって、敢えて小路に入り込んでみたりもしました。f:id:greenbirdchuro:20190807212423j:plain


モリーナ・ラリオ通りを南下していくとエルカルナシオン大聖堂(マラガ大聖堂)が見えてきました。都会的な雰囲気の市街地に突如と現れたアンティークな佇まいには溢れんばかりの気品があります。建物の周囲の道路や広場がそれほど大きくないため、建物全体を写真に収めるのは難しく、色んな方向から分割して写真を撮っていくしかありません。写真の北塔は87mもの高さがあり、そのおかげでアンダルシアで最も高さのある大聖堂だとされています。f:id:greenbirdchuro:20190807205651j:plain

 

大聖堂の西側にあるオビスポ広場から見た北塔です。レコンキスタによりマラガを支配したカトリック両王の命でメスキータ(モスク)の跡地にこの大聖堂の建設が始まったのは1528年でした。当初はゴシック様式で工事を開始していますが、1782年の終了時まで250年ほどの期間を要しているため、ルネサンスバロックなどの様々な建築様式が混在する結果になり、完成した大きな石造りの建物の外観はルネサンス様式が基本になっています。f:id:greenbirdchuro:20190807212256j:plain

 

しかも、アメリカ独立戦争への支援で資金不足が生じたため、予定されていた2本の塔のうち南塔については未完のままで工事を終えています。大聖堂の南側にあるボスティーゴ・デ・ロス・アバーデス通りから南塔をよく見ると、柱がむき出しになっているのがわかります。南塔については、完成させるべきとする人とこのままで良いと言う人で意見が割れているようですが、マラガの人々が愛や親しみを込めてこの大聖堂を「片腕の貴婦人」と呼んでいるのを聞くと、このままで良いような気もします。f:id:greenbirdchuro:20190807212301j:plain


見学者のための入り口は翼廊のある北側から。装飾の施されたアーチをくぐって中に入っていきます。f:id:greenbirdchuro:20190807205658j:plain

 

円柱のアーチをくぐって大聖堂の中に入ると、市街地の喧騒が嘘のような静寂な空間が広がり、ステンドグラスから差し込む光が身廊とそれを支えるがっしりとした大理石の柱を幻想的に照らしています。柱や天井に施された装飾も美しく上品で、片腕を欠いていながらも、この大聖堂が貴婦人と呼ばれてきたことに納得します。f:id:greenbirdchuro:20190807205706j:plainf:id:greenbirdchuro:20190807205740j:plain

 

側廊には17もの小礼拝堂が並んでいますが、ひとつひとつが個性的で見応えがあり、美術館で作品を鑑賞しているような気持ちになります。小礼拝堂といっても主祭壇と言ってよいくらい存在感があるものばかりです。f:id:greenbirdchuro:20190807210418j:plain

 

身廊の中央に向かい合うように2台の大きなパイプオルガンが配置されていて、その間には、彫刻家ペドロ・デ・メイナによって40体の聖人が装飾された聖歌隊席が並んでいます。この重厚感溢れる空間で、パイプオルガンの演奏で聖歌隊の賛美歌なんか聞いてしまったら、わけわかんなくても泣いてしまいそうだと思いました。f:id:greenbirdchuro:20190807205936j:plainf:id:greenbirdchuro:20190808183854j:plain

聖歌隊席の彫刻もさることながら、クラシックなパイプオルガンがこの空間の雰囲気にぴったりです。迫力ある立派なパイプオルガンですが、近くで見るととても繊細な装飾がされていてステキです。こんなオルゴールがあったらほしいくらい。f:id:greenbirdchuro:20190807205943j:plain

 

とても高い位置にあるので、細部まで写真に収めることが難しいものの、ステンドグラスも鮮やかな色使いで聖堂内に華やかさを添えていました。f:id:greenbirdchuro:20190807205949j:plainf:id:greenbirdchuro:20190807210423j:plain

 

 

 

ドバイで寄り道とアリバイ工作

アンマンから帰国のために搭乗した飛行機の乗継時間を利用してドバイ観光です。

 

数十年前まで遊牧民が暮らす砂漠地帯だったドバイは、石油の発掘とともに、あっという間に世界有数のリゾート地となりました。なんと年間約1,500万人を超える観光客が訪れるそうです。正直なところ、遺跡 > リゾートのわたしにとってはそれほど魅力のある場所ではありません。ドバイに行くと言って、ヨルダン・イスラエルに行ってきた手前、嘘をついたわけではない・・・ということにしたくて立ち寄ったというところです。それもこれも、エルサレムでオリーブの丘からの景色をFacebookにUPした時点で全てのアリバイ工作が台無しになったわけですが・・・。

 

最初に訪れたのはバール・ドバイ地区にあるドバイ博物館です。ドバイに現存する最古の建造物を再利用して展示された豊富な資料でドバイの民俗史を学ぶことができる貴重な博物館です。

 

入り口の前には大きなダウ船が展示されています。ダウ船とは紀元前後からインド洋やアラビア海近辺で活躍した伝統的な木造帆船で、釘を一切使わず紐やタールで組み立てられたものです。博物館でしか見たことないので、大昔のものだと思っていましたが、今でも製造されていて、動力をつけて使用されているそうです。f:id:greenbirdchuro:20190805230939j:plain

 

博物館の建物は、サンゴや泥と言った地元の素材を使って1787年に建造された要塞「アル・ファヒディ砦」をそのまま再利用しています。どうりで、博物館というより堅牢な要塞といったほうが相応しい雰囲気だと思いました。f:id:greenbirdchuro:20190805230943j:plain

 

中庭に展示されていた木製の船です。これで天然の真珠を採取していたのかもしれません。小さな漁村だったドバイのかつての生活が思い浮かびます。ちなみにドバイの真珠漁は、日本でミキモトが真珠の養殖に成功したことで廃れていったそうです。f:id:greenbirdchuro:20190805230948j:plain

 

博物館の中庭には、椰子の枝で作られた昔の伝統的家屋が置かれていました。現在の煌びやかなドバイからは想像もつかない粗末で小さな家ですが、暑さの厳しい夏でも涼しく過ごせるように考案されたものなので、見るからに風通しが良さそうです。f:id:greenbirdchuro:20190805230952j:plain

 

アラブの人は大柄なイメージがありましたが、家具は思ったより小さめでした。日本人もかつてはそうだったように、ドバイの人々も昔はもっと小柄だったのでしょうか。f:id:greenbirdchuro:20190805231008j:plain

 

近年のドバイと言えば、超のつく高層ビルがトレードマークになっていますが、この博物館がそんなトレンドと一線を画すのが、展示室の多くが地下であるという点です。

 

こういった類の博物館の展示は、火を手にした原始人家族の人形からスタートするのが常ですが、有難いことにここでは1930年代から80年代のドバイの発展史から展示が始まります。民族博物館ではお馴染みとも言える蝋人形による再現展示もありましたが、マダム・タッソーの蝋人形館も顔負けのリアルな出来ばえです。f:id:greenbirdchuro:20190805231018j:plain

 

現在も首長として君臨するマクトゥーム家が移住してきて、ドバイ首長国が建国されたのは1830年代のことでした。イギリスの保護下で交易中継地として発展し始めた小さな漁村は、歴代首長のとった自由貿易政策や社会資本の近代化によって、わたしたちの知る近代ドバイの下地が出来ていきました。ドバイ沖での海底油田が発見された1966年以降の爆発的な発展は誰もが知るところです。f:id:greenbirdchuro:20190805231012j:plain

 

3世紀のものです。小さな漁村だったドバイで漁に使われていたものでしょうか。f:id:greenbirdchuro:20190805231029j:plainf:id:greenbirdchuro:20190805231047j:plainf:id:greenbirdchuro:20190805231050j:plain

 

博物館の後は、ドバイ・クリークの対岸にあるスパイス・スークを目指します。移動手段は、お世辞にも立派とは言えない見た目のドバイの伝統的な渡し船であるアブラ。いわゆるポンポン船という類のもので、人数が集まったら次々と出発します。と言ってもクリークを渡るだけですけど。f:id:greenbirdchuro:20190805231731j:plain

 

強風なんて吹こうものなら一気にひっくり返ってしまいそうですが・・・。f:id:greenbirdchuro:20190805231736j:plain

 

振り返るとグランドモスクの高いミナレットがそびえ立っていました。f:id:greenbirdchuro:20190805231741j:plain

 

グランドモスク東側にあるAl Farooq Mosqueです。f:id:greenbirdchuro:20190805231746j:plain

 

対岸までは10分もかかりませんでした。ドバイ・クリークからすぐ近くにあるスパイス・スークは、文字通り世界各地のスパイスが集まるエリアです。どのお店にもコショウやカレーパウダー、クミンシード、粉末パプリカ、カレーリーフなどアラビア料理やインド料理に欠かせない色とりどりのスパイスがずらりと並んでいました。スパイスを良く使うお料理好きな人にはたまらない場所ですが、それ以外の人にとってはただひたすらに見て楽しむ場所といった感じです。f:id:greenbirdchuro:20190805231752j:plain

 

スパイス・スークからさらに北に向かうとアーケードの通りの両側が金製品だらけというゴールド・スークがありました。「見てるだけ~」オーラを出して歩きましたが、未だに日本人はお金を持っているという間違ったイメージがあるのか、貧相な身なりのわたしでも手招きされて客引きに連れていかれそうになります。中国人の観光客を見かけるとそちらに行ってくれるので何度か助けられました。それにしても、所せましと並べられた金製品に目がくらみそうです。f:id:greenbirdchuro:20190805231802j:plain

 

このゴージャスな冠は、いつ、どなたが、何のためにお使いになられるんでしょうね。f:id:greenbirdchuro:20190805231756j:plain

 

お土産の買い物のために訪れたドバイモールの吹き抜けエリアに突然現れた巨大水槽はドバイ水族館のものです。太っ腹なことに、この水槽は買い物に来た人が誰でも楽しむことができる無料エリアにありました。水槽の前に立つとまるで自分が深い海底にいるような気分になります。この水槽のスゴさは、ギネスに登録されている水槽のサイズだけではありません。厚いパネルを使っているのに水槽の中の魚たちが全く歪んで見えないんです。それを可能にしたのは日本製のアクリルパネルだそうですから、水槽の前に出来た人だかりすらとても誇らしく思えてきます。f:id:greenbirdchuro:20190805231807j:plain

 

世界一という冠が大好きなドバイでも、特に最強なのが、2010年にオープンした世界一高いビルブルジュ・ハリーファです。その高さは634mの東京スカイツリーを遥かに上回る828m。(自宅から最も近い東京スカイツリー以外の)世界の名だたるタワーを制覇してきたわたしが登らないわけがありません。天まで届きそうなその外観を写真に収めることは端から諦めていたので、早速エレベーターで124〜125階にある展望台「AT THE TOP」へ向かいました。ちなみにこの世界最高層のビルの空調や電気設備、わたしたちを地上から展望台まで運ぶエレベーターも日本製なんだそうです。f:id:greenbirdchuro:20190805231813j:plain

 

世界最速エレベーターは、恐ろしいスピードで452mの高さにある展望台「AT THE TOP」に到着しました。エレベーターの目の前の回転ドアから出ると、なんとそこにあったのはまさかの屋外展望台でした!この高さで屋外が許されるなんて・・・。f:id:greenbirdchuro:20190805231830j:plain

 

幹線道路に沿って建てられた巨大ビル群のはるか向こうには、砂漠地帯が広がっていて、砂漠の中に突如として現れた近未来都市といった感じは、まるでSF映画の世界を見ているようです。f:id:greenbirdchuro:20190805231817j:plain

 

現実味がない高さなので、かえって恐怖心はわきませんが、映画「ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコールでスタントを使わずこの建物の外壁にぶら下がったトム・クルーズに対しては尊敬の気持ちを通り越して、ちょっと頭がおかしいんじゃないか?としか思えません。きっとアドレナリン中毒の傾向があるんでしょうけど。f:id:greenbirdchuro:20190805231825j:plain

 

映画「ワイルド・スピード/スカイ・ミッション」でもブルジュ・ハリーファの周囲をスリリングに駆け抜けるシーンが撮影されていました。

 

この高さからだとプラモデルにしか見えないビル群を眺めながら、展望台で粘っているうちにドバイモールに隣接する人工池で噴水ショーが始まりました。150mの高さまで水が噴き上がる様子は、それこそ水がダンスを踊っているようです。この噴水も世界一なんだとか。雨がほとんど降らず、川もないドバイにとって水は大変貴重な資源ですが、この噴水の水を含めたドバイの生活用水は海水を淡水化したものです。なんとその浄水技術も日本の企業のものだそうです。これだけドバイの「世界一」に日本の企業が貢献しているんだから、観光施設の日本人割引があってもいいと思いませんか?f:id:greenbirdchuro:20190805231836j:plainf:id:greenbirdchuro:20190805231841j:plain

 

すっかり日が暮れたので、地上で噴水ショーを観覧しました。とにかくすごい人です。f:id:greenbirdchuro:20190805231901j:plain

 

ライトアップされたブルジュ・ハリーファ。これが写真の限界ですね。f:id:greenbirdchuro:20190805231854j:plain

 

ドバイの夜はまだまだ続きそうですが、わたしは帰国便の時間です。f:id:greenbirdchuro:20190805231847j:plain

 

無駄に終わったアリバイ工作でしたが、それなりにドバイを楽しむことができました。

 

 

TRANSIT(トランジット)44号 砂漠の惑星を旅しよう (講談社 Mook(J))

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ドバイのまちづくり―地域開発の知恵と発想

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ようこそドバイへ! ドバイ・アブダビ2018シリーズ (EvoTo写真集)

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